不和の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 00:11 UTC 版)
大内氏と抗争を繰り広げていた尼子晴久が、大内の支配下だった備後国に出陣すると、政変後の処理に追われる義長・晴賢に代わって元就と安芸国人衆が対抗。天文21年(1552年)7月から翌22年10月まで断続的に続いた攻防の末に尼子氏を撤退に追い込んだ。 一方で、尼子撃退後の安芸・備後周辺の戦後処理を巡って、元就と晴賢の間には確執が生まれ始める。10月19日夜に陥落した備後旗返山城(三次市)に関しては、この旗返城を毛利家が守りたいとする元就に対して、晴賢は陶家臣の江良房栄を城番とした。晴賢が元就の意見を蹴ったのは、毛利がこれ以上勢力を伸長することを快く思わなかったためとされ、江良には毛利の監視という役割も担っていたと考えられる。 その頃、義隆に恩義があった石見国三本松城主の吉見正頼が、陶晴賢打倒を目指して挙兵。正頼は既に5月には吉田郡山城に使者を使わしており、毛利の力添えを要請していた。一方、義隆の敵討ちという大義名分のある吉見軍に苦戦していた晴賢らは、天文23年(1554年)の春に大規模な石見遠征を計画、同年正月頃に毛利と安芸国人衆の出兵を元就に要請した。
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