「迷宮」からの独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:13 UTC 版)
「コミックマーケット」の記事における「「迷宮」からの独立」の解説
原田は、オリジナル創作漫画サークルの発展を期待していたが、二次創作物が主流となり、創作漫画も既存の商業作品の二番煎じと思しき作品のサークルが多かったコミックマーケットの実情は誤算だった。しかし、コミックマーケットの理念として、もとより二次創作を排斥すべきではないと考えた原田は、C12を最後に代表を辞任、この時期を最後に「迷宮」も運営から手を引き、C14からは米澤嘉博が代表に就任した。以降、コミックマーケットは組織として独り立ちしたとされる。その後、原田はコミックマーケットそのものから身を引き、のちに米澤が亡くなるまで再参加することはなかった。 原田は『コミックマーケット創世記』で26年間の空白を次のように語っている。 亜庭じゅんや米やんともさんざん話し合ったが、だからといって創作サークル主体にコミックマーケットを作り替えることもできず、それ以前に作り変えるつもりもなかった。コミックマーケットは準備会が作るものではなく、参加サークルと一般参加者がみずから作り上げるものだからだ。そんな大原則に忠実にやってきたつもりの僕としては、目の前にあるコミックマーケットがみずからの望むものでないのなら、自分が身を引くしか方法がない。そう考えて第12回開催以前に、もう決心を固めていたのである。今から思えばそんな考えがどれほど未熟だったかいくらでもあげつらうことができるが、とにかく僕はそういって、留任を求める周囲からの意見をすべてはねのけてしまったのだ。そして辞任する以上は、それまでのファン活動のいっさいからも離れ、「迷宮」を中心とする仲間とも決別する覚悟だった。 以来、米やんの他界を知らされ、再び昔の仲間たちと顔を合わせるまでに26年の空白。 帰ってきたのか?それとも新しく始めるのか? ただ一つわかったことは、26年ぶりに訪れたコミックマーケットの会場前に立った僕は、参加者の誰よりもそれについて知らない浦島太郎になっていたということである。 『漫画新批評大系』はその後、第15号を1981年12月20日に発行して以来、休刊状態。それでも『漫画新批評大系』を置く場所は、現在でもコミックマーケットの会場に「迷宮」のための即売スペースとして特別に提供され続けている。 けれどそのスペースを与えられた「迷宮」がどんなサークルなのか、知っている参加者はもう誰もいない。 — 霜月たかなか(原田央男)『コミックマーケット創世記』朝日新聞出版(朝日新書)2008年,183-184頁から抜粋 その後「迷宮」および亜庭じゅんは1980年、オリジナル創作漫画専門の即売会「まんが・ミニ・マーケット」をコミックマーケットの補完として開催した。これはコミックマーケットの規模拡大で売り手と買い手、作者と読者、さらにはファン同士の交流が薄れ始めたため、適正規模の即売会を別に設けること、また頒布物における二次創作物の占める割合が高まったため、純粋なオリジナル創作だけの場を設けるべきではないかという声に応じたためという。まんが・ミニ・マーケットは1981年にMGM(Manga Gallery & Market)と改称。その後、MGMの模倣から始まったと自称する、世界最大規模の創作同人誌即売会「COMITIA」が1984年に創設された。ふたつの即売会は、2022年5月現在も存続している。 ちなみに「迷宮」はコミックマーケットから離れた後も、サークル参加の永久スペース取得権を有している。これは、コミックマーケット準備会が帳簿上「迷宮」からの借入金が残ったままになっており、その代償という形を取っているためと言われている。
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