「足助の町並み」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 13:57 UTC 版)
「足助町 (豊田市)」の記事における「「足助の町並み」」の解説
歴史的側面から見れば、江戸時代初期、1629年(寛永6年)の検地帳によれば、足助には田町、東町(ひがしまち)、西町、新町の4町、その他宮平(みやだいら)、落部(おちべ)などの集落があった。東町は1681年(天和元年)に足助陣屋が置かれた後に本町に改称されている。これらの地名は現在でも字名として残っており、とりわけ4町においては商店・町家の多くが伝統的なたたずまいを残している。上記4町を中心とする21.5ヘクタールの区域は、2011年(平成23年)6月20日付けで「豊田市足助伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。一般には「足助の町並み」と呼ばれる。 「塩の道・三州足助の町並み」で、手づくり郷土賞を平成元年度(歴史をいかした街並み)受賞。また平成17年度同賞大賞受賞。 足助町内において、伊那街道・飯田街道の後継とされる国道153号は現在足助川・巴川の左岸を走っているが、往時の伊那街道は主に両川の右岸にあり、足助の町並みを鍵形に縫うようにして通じていた。家々は短冊状に仕切られた敷地の間口いっぱいに主屋を建て、裏手では離れ座敷や土蔵を窮屈に配しており、そうした建家が街道沿いに隙間なく連なっている。もともと谷筋の河岸段丘上にあることから平地が少なく、土壌を切り盛りしたり石垣を幾重にも積み上げたりして均した造成地が多く作られており、生かしうる敷地を最大限に生かそうとする風土が足助の町並みの土地利用の特徴とも言える。 1775年(安永4年)に発生した大火によって多くの人家や商家が焼失し、現在残っている旧家はこの大火の後、江戸時代後期から明治時代末までに建造されたものが大部分を占める。建物の特徴としては、大火の類焼を逃れて現在に残るわずかな寺院などには茅葺が見られるのに対して、大火以降の建造物では漆喰塗籠めの壁とやや急勾配の瓦葺屋根を持つものが多く、当然ながら防火を意識したものと考えられる。2階建て平入(ひらいり)様式の町家が多いが、随所に妻入(つまいり)様式の町家や錣屋根(しころやね)を頂いた古い主屋などが混在しており、1階にも庇が見られるのは蔀戸(しとみど)を伴っていたことの名残と思われる。大正時代以降から戦後を経て現在に至るまで、こうした伝統的な建築様式を踏襲して建てられた建築物も多く(近年ではドラッグスギヤマ豊田足助店など)、豊田信用金庫足助支店のように建て替えの際に近代風から伝統建築風に衣替えするところもあり、景観を保ち守ろうとする地域の一体性がここに垣間見える。 マンリン小路(2019年(令和元年)9月) 足助川にせり出した座敷と石垣、そして石組み階段が特徴的である。(2019年(令和元年)6月)
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