「詩人」以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:51 UTC 版)
シェルター・レコードとの契約のこじれからコロムビア・レコードに移籍したスノウは、1976年にフィル・ラモーンのプロデュースによるセカンド・アルバム『夜の調べ』をリリースした。よりジャジーで内省的なこの作品の売り上げは、前作と比べて芳しいものではなかった。プロデューサーをデビット・ルービンソンに変えて同年後半にリリースしたアルバム『雪模様』ののち、1977年には再びラモーンによるアルバム『薔薇の香り』を発表した。バリー・ベケットのプロデュースによる1978年のアルバム『詞華集』を最後にコロムビアを離れたが、このころ重い障害を持つ娘の育児の負担により、音楽活動に力が入らなくなっていったと、のちにスノウは述懐している。 1981年、スノウはミラージュ・レコードと契約し、ビリー・ジョエルのバンドメンバーとレコーディングしたアルバム『ロック・アウェイ』をリリースした。1983年のローリングストーン・レコードガイドでは、「同世代の歌手の中でも天性の素晴らしい声を持ち、スタイルとしても技術的にもどんな歌でも歌えるのだが、未だ答えの出ていない問題は、これほどの才能をどの方向に向かわせればいいのか、ということである」と、この時点でのスノウのキャリアが総括されている。とは言え1980年代のスノウは長くレコーディングから遠ざかり、自身も重い病気を患いながら、時折AT&Tその他の短いCMソングを、病気の娘の養育費用と生活のために歌うだけになっていた。 1989年になってスノウはアルバム『サムシング・リアル』で復帰を果たし、アダルト・コンテンポラリー・チャートにランクインするヒット曲を生んだ。1990年には、エレクトラ40周年記念アルバム『ルバイヤート』収録曲として、デラニー&ボニーの「Get ourselves together」を、アース・ウインド&ファイアーのギタリスト、ディック・スミスを従えてカバーした。1992年にはドナルド・フェイゲンの「ニューヨークロック&ソウルレビュー」ツアーに同行し、同バンドのニューヨーク・ビーコンシアターで録音されたライブ・アルバムにも登場した。この時期、彼女自身の作品のレコーディングは行われていなかったが、フィービはソロ・アーティストとしてのツアーを、アメリカ、イギリス、ドイツ、初の来日となった日本で行なっている。その後の1990年代は、ラジオやテレビ番組の収録、トリビュート・アルバムへの出演などをコンスタントに続けた。 1998年、ニューヨーク市長ルドルフ・ジュリアーニから文化功労賞を授与されたほか、ドン・カーシュナー・ロックアワード、ニューヨーク・ミュージック・アワード、クリオ賞などを受賞している。1999年にはキャンプ・デービットでアメリカ大統領ビル・クリントン、ヒラリー夫妻らを前にパフォーマンスを披露している。2003年に14年ぶりとなるオリジナル・アルバム『Natural Wonder』をリリースした。その後、2008年にライブ・アルバムを発売したほか、2010年にニュー・アルバムの発売と、同年3月からライブ・ツアーを予定していた。
※この「「詩人」以後」の解説は、「フィービ・スノウ」の解説の一部です。
「「詩人」以後」を含む「フィービ・スノウ」の記事については、「フィービ・スノウ」の概要を参照ください。
- 「詩人」以後のページへのリンク