「瞑想」「冥想」という表現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 08:25 UTC 版)
瞑想に関しては複数の言語間での翻訳の行き来等に伴う表現の混乱がある。明治・大正の日本人が、脱亜入欧・西洋近代化を目指し、仏教などの既存の日本の文化のしがらみを断とうと、適切な訳語であっても仏教関連用語を避けたことがそもそもの原因である。哲学者の井上哲次郎は、欧米の思想の翻訳の際に仏教関連用語を意図的に避けている。彼の決定が与えた影響は極めて大きかった。井上は英: meditationの訳語に「沈思・冥想」を、英: contemplationの訳語に「熟考・沈思・冥想・深察」などを当てているが、この「冥想」という語は、中国の思想の世界や正統哲学精神史の中で、あまり一般的ではない用語だったようであり、日本人にとってなじみのない言葉だった。こうした訳語の選択により、宗教行為である meditation や contemplation の訳語から、宗教性や精神性が希薄になるという事態が起こった。 近代になると、ヨーロッパで仏教が研究されるようになり、禅やチベット仏教の実修、ヨーガなどが、meditation、contemplation と理解され、翻訳された。それらを紹介した欧米の書物がさらに邦訳される際(再輸入される際)、元の仏教用語に相当する日本語ではなく、「冥想」「瞑想」と訳されたものも少なくなく、仏教の訳語であっても仏教用語が用いられないという錯綜した事態となった。「瞑想」の英訳には、meditation と contemplation のどちらかが当てられている。 「冥想」という言葉は、漢語としては、目を閉じて深く思索するという意味であり、道教に由来する。根源的な真理である大道と一体化するための方法として重視された。「冥」は「場所に手で幕をかける」「死者の顔を覆う布」の意味であり、どちらも覆われて見えない様子、暗い様子を表し、「奥深いところ」「目に見えない神仏の世界」「深遠な道理」などの意味が派生した。一方「瞑」は「目をつぶる」「死ぬ」などの意味で、死者のように目をつぶるという意味である。よって、宗教的実践の訳語としては、「瞑想」では深い精神性を表すことができないため、適しておらず、「冥想」のほうが適切であろうと思われる。宗教的実践を「瞑想」と訳すと、翻訳元の意味を正確に理解することが難しくなる。 スペイン語: meditación、英語: meditation という言葉はラテン語: meditatio に由来している。ローマ時代の meditatio は「精神的および身体的な訓練・練習」全般を意味していた。 その後、西ヨーロッパにおいてはもっぱらキリスト教カトリックが発展した。私的な祈りはその形態から、定型の祈りの言葉を声に出して唱える口祷と、心の中で念じる祈り念祷(oratio mentis)に分けられ、念祷はさらに思弁的な祈りである黙想(meditación、meditation)と、言葉を介さずに真理を直接に「観る」非思弁的な神秘体験観想(スペイン語: contemplación、英語: contemplation)に分けられた。キリスト教カトリックの祈りにおいて、観想が最も高度な段階である。日本では meditatio を「黙想」と訳し、プロテスタント教会では念祷(oratio mentis)を「瞑想」と訳すようである。冥想・冥想より意味が限定された仏教の訳語を用いるなら、meditation は凝念、contemplation は静慮または三昧が適当であろうと思われる。 伝統的な仏教では、瞑想という語はほとんど用いられてない。仏教用語のパーリ語の bhāvanā(バーヴァナー)は修習、修行と訳されており、これが瞑想に当たる。修行とは、「身体の訓練を通じて『悟り』を目指すこと」を意味する。yoga(ヨーガ、瑜伽)、pratipatti(プラティパッティ、行)、特に密教にて用いられるsādhana(サーダナ、成就法)も瞑想に当たる。また、瞑想で達する心理的状態を表すdhyāna(ディヤーナ、禅那)、samādhi(サマーディ、三昧)も、俗に瞑想を指す言葉とされることもある。
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