「勝ち組」と「負け組」の抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:53 UTC 版)
「日系ブラジル人」の記事における「「勝ち組」と「負け組」の抗争」の解説
1944年に入り、日本をはじめとする枢軸国の戦況が悪化するにもかかわらず、これらの事実を「連合国として参戦しているブラジル政府によるプロパガンダ」として受け取らない者が、奥地に住む教育程度もポルトガル語の能力も低い農民を中心に続出した。さらに、1945年8月に日本が連合国に対して降伏したにもかかわらず、多くの日本人移民や日系ブラジル人がこれをデマとして信用せず、いわゆる「勝ち組」(日本は戦争に勝ったと考える人々)と「負け組」(日本は負けたと考える人々)の問題が発生した。 これに対し、事実を認識する活動が日系移民の間に広がった。詐欺師たちは認識運動を妨害するためにテロ事件をおこし、数名が殺害された。1946年には、非日系ブラジル人との大規模な衝突まで発生した(オズワウド・クルース事件)。さらに、この状況を利用したガリ版刷りの偽ニュース売り、戦時中に日本が占領下に置いたシンガポールの土地などの偽土地売り、日本への帰国船の切符、日本の土地を売る偽帰国事業、無効になった旧日本紙幣や軍票をうる偽札売りなどの、日本人成功者を狙った詐欺が横行した。詐欺の首謀者たちは日本人であった。 1946年に日本語新聞の発刊が解禁され、1951年に日本とブラジルの国交が回復された後も、教育程度もポルトガル語の能力も低い者が多くを占める「勝ち組」の多くは日本の敗北を信じず、「負け組」に対する攻撃を続けた。さらに一部の日本語新聞は故意に勝ち組をあおり、販売数を伸ばした。このような状況は数年続いた。その後も対立は続いたが、上記の日伯間の国交回復による交流の促進や、1954年に行われたサンパウロ市400年記念祭、1958年の移民50周年記念祭をきっかけに融和が進み、1950年代後半には次第に「勝ち組」の勢力が縮小し姿を消すこととなったものの、日本人移民および日系ブラジル人社会の分裂は、しばらくは大きな悪影響を残すこととなった。「負け組」の人々は敗戦の現実を比較的早く知ることができたので、戦後体制に適応し仕事に成功した人が多かった。 現在は旧移民の多くが死去し、ブラジルの学校で学んだ日系二世以後の世代になっているため、文化基盤が大きく異なる。上記の日系コロニア内の事件「勝ち組」、「負け組」に関しても、比較的古い日本語の文献と新しいポルトガル語の文献ではその取り扱いがしばしば異なる。 日本語の最新資料としては、柔道史上最強の木村政彦の評伝「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」がある。「勝ち組」と「負け組」の抗争真っ盛りの1951年、木村政彦がブラジルにやってきて、マラカナン・スタジアムでエリオ・グレイシー(当時の日系柔道家はこのエリオ・グレイシーに連戦連敗していた)を破り、日系ブラジル人達を歓喜させるまでの流れを細かく綴っている。ブラジル大統領を含めた要人達が多数観戦に来ていた。しかし、この物語はブラジル国内ではほとんど知られておらず、ポルトガル語の資料が乏しい。
※この「「勝ち組」と「負け組」の抗争」の解説は、「日系ブラジル人」の解説の一部です。
「「勝ち組」と「負け組」の抗争」を含む「日系ブラジル人」の記事については、「日系ブラジル人」の概要を参照ください。
- 「勝ち組」と「負け組」の抗争のページへのリンク