「動員戡乱時期臨時条款」の公布と戒厳令の施行
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「中華民国憲法」の記事における「「動員戡乱時期臨時条款」の公布と戒厳令の施行」の解説
憲法は制定されたが、中国大陸においては、共産党と国民党の主導権争いが内戦に発展し、国民党は共産党勢力の制圧を目指して軍事活動を展開した。しかし、憲法を基本法としていたのでは共産党勢力の制圧が不十分であるとして、平時の国家秩序である憲法を修正して戦時体制をとる必要があるとされた。 1948年5月10日、中華民国憲法の付属条項として、動員戡乱時期臨時条款が公布された。2年間を限度として、事実上憲法の諸制度を停止するというものである。ここで、「動員」とは国家総動員のことであり、「戡」(かん)とは、「うちかつ」の意味であり、「戡乱」(かんらん)とは「乱にうちかつ」、すなわち反共産主義のことである。この主要な内容は、動員戡乱時においては、総統は国家や人民が緊急の危難に遭遇することを避けるため、または財政経済上の重大な変動に対応するために、憲法上必要とされる手続きに拘束されることなく行政院の決議を経て緊急処分をなすことができるというものである。 しかし、中国大陸での戦線が共産党の優位に進展し、1949年1月23日に北京が共産党軍の手に落ちると、国民政府の台湾撤退は焦眉の急となり、同年5月19日、台湾全土に「戒厳令(中国語版)」を布告した。この「戒厳令」は1950年3月14日に立法院の追認を受け、合法化されていった。中国大陸では、北京に引き続き南京放棄、上海陥落と国民政府軍の敗退は決定的となり、蔣介石率いる国民党政府は、1949年7月24日、厦門から台湾に逃れてきた。この国民党政府の移駐に伴い、中華民国の法体制が台湾に持ち込まれ、日本統治時代の法体制をほぼ完全に取り換えた。従って、この憲法の制定過程において、台湾の住民は全く関与しなかった。 1949年12月7日、中華民国政府は台北に臨時首都を定めたことを宣言し、翌1950年3月1日、蔣介石が中華民国総統に復帰し、台湾統治の頂点に君臨するようになった。蔣介石は中国大陸から国民党軍を率いてきただけでなく、中華民国が中国大陸に存在していた時に作り上げた法体系を持ち込んだ。すなわち、制定されたが事実上効力を停止されている「中華民国憲法」と、その効力を停止するに至った「動員戡乱時期臨時条款」である。ここに日本撤退後の台湾では、「戒厳令」と「動員戡乱時期臨時条款」という二重の担保を手にした蔣介石の独占的権力支配が正統化されていったのである。「動員戡乱時期臨時条款」は、制定時には2年間という時限が定められていたが、2年が経過した1950年に自動的に延長された。 なお、蔣介石は1966年に憲法改正の是非を問う臨時国民大会を召集したものの、『大陸奪還前に憲法改正は行わない』という決議が採択されたため、この時提案されていた改憲案(中国語版)の採択は見送られた。
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