「スプリング・シティ」
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「ウォキショー (ウィスコンシン州)」の記事における「「スプリング・シティ」」の解説
シカゴの初期の開拓者マシュー・ラフリンはウォキショーに資本や仕事をもたらした。彼はファウンテン・スプリング・ハウスの経営者となり、ウィスコンシンのリゾート地としての市の基礎を作った。ウォキショーはかつて非常に澄んでいて美味しい水で知られており、「スパ・タウン」と呼ばれていた。他にも「スプリング・シティ」、「西のサラトガ」などのニックネームを付けられた。 クリスティーン・アダムス・ウェントによると、1868年、糖尿病患者のコロネル・リチャード・ダンバーは彼の姉妹が購入した土地の一区画を視察していたところ、後にベセスダ・スプリングと名づけられた泉に薬効成分があることを偶然発見した。 ウェントは1872年までに以下のような報告をした。「泉は苦しんでいる群衆の間で人気となっており、市は彼らに対処するのには準備不足だと地域の新聞は伝えた。隔週刊の『ウィスコンシン(ミルウォーキー)』1872年7月31日号では、「ホテルは500人の宿泊客でいっぱいで、不思議な水から利益を得ようとする家族も散在している」と報じられた。 「癒しの水」は非常に高く評価されており、1893年のシカゴ万博に訪れる人を楽しませるために、市とシカゴの間にパイプラインを建設する試みが議論されたこともあった。雑誌『タイム』によれば、「叔父から泉を譲り受けたチャールズ・ウェルシュはこの計画を考え出したが、パイプを数マイル敷設したところでコストが高すぎることに気づいた」という。 シアーズの創業者、リチャード・W・シアーズもウォキショーの水に魅せられていた可能性がある。彼は病気により1908年にリタイアし、『ニューヨーク・タイムズ』によれば「晩年をウォキショーのそばの広大な農場で過ごした」という。1914年、シアーズはブライト病(腎臓病)により亡くなり、約2000万ドルと見積もられる不動産が遺された。 年月を重ねるにつれて、天然の泉は汚染されてその価値を損ない、そして干上がっていった。帯水層からくみ上げられる水には連邦の基準を超えるラジウムが含まれていた。 2013年、市はミシガン湖から水を引くことへの承認を求めた。ウォキショーはミシガン湖の流域外に位置しているために、2008年の五大湖州間協定(Great Lakes Compact)により、イリノイ州、インディアナ州、ミシガン州、ミネソタ州、ニューヨーク州、オハイオ州、ペンシルバニア州の各州の同意なしには取水をする資格がない。2015年9月時点では、ウィスコンシン州知事スコット・ウォーカーの同意を得るのみにとどまっている。
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