武歴とは? わかりやすく解説

武歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/30 08:00 UTC 版)

上原清吉」の記事における「武歴」の解説

1916年大正5年)に本部朝勇道場入門した本部朝勇は、旧琉球王族である本部御殿直系当主であり、弟には当時沖縄最強唐手(現・空手)家として知られ本部朝基をもつ著名な武術家であった上原本部朝勇から「御主加那志前(ウシュガナシーメー、琉球国王)の武芸」と呼ばれた本部御殿家伝武術学んだ1924年大正13年)、首里城南殿開催され演武大会本部朝勇とともに参加した翌年1925年大正14年)にも那覇大正劇場開催され唐手演武大会に師とともに参加した。この演武大会には総勢40名が参加し祖堅方範喜屋武朝徳当時大家出演した大規模なものであった同年上原は師の言いつけ和歌山渡り本部朝勇次男本部朝茂に師から受け継いだ武術伝授した1926年大正15年)に兄を頼ってフィリピン南部大都市ダバオ移住した当時ダバオには多数日本人入植者がいた。1928年昭和3年)、フィリピン開催され昭和天皇御大典記念演武大会に、沖縄県代表の三名のうちの一人として参加したまた、同年ダバオ道場開設し太平洋戦争が始まる1941年昭和16年)まで当地唐手琉球古武術指導した同年開戦によりフィリピン軍属として徴用され参戦した1947年昭和22年)、復員し沖縄帰郷した数年の間は師から受け継いだ技を戦場殺傷用いた時の嫌悪感思い出してしまい、武術から離れて過ごした占領下沖縄で、乱暴行為をする米兵を、やむを得ず学んだ技を使い制した云う逸話残っている)。やがて1951年昭和26年)、宜野湾市にて武術指導再開し1961年昭和36年)、流派名を本部流として、本部流古武術協会設立したまた、同年6月比嘉清徳武芸館)、祖堅方範少林松村正統)、島袋善良少林聖武館)、兼島信助(渡山流)らとともに沖縄古武道協会(後、全沖縄空手古武道連合会)を結成したまた、同年11月第一回沖縄古武道発表大会出演した1970年昭和45年)、上原は師から学んだ御主加那志前武芸」を一般公開する事を決意し流派名を新たに本部御殿手に改め本部御殿古武術協会設立した

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武歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/01 03:18 UTC 版)

本部朝勇」の記事における「武歴」の解説

本部朝勇は、幼少の頃より本部御殿手を父・朝真より学びまた、当時首里手大家であった松村宗棍糸洲安恒らをその邸宅招いて唐手学んだとされる糸洲本部御殿唐手教え始めたのは、1881年明治14年)頃からと言われているので、朝勇25歳の時からということになる。初め唐手師事するにはやや高い年齢なので、父や松村師事したのは、それ以前幼少の頃から10代の頃であった推定される。おそらく武芸の幅をさらに広げる目的で、当時すでに高名であった糸洲招聘したのであろう。朝勇は、文武両道優れ武術以外にも琉歌琉球舞踊にも優れた教養人であった廃藩置県頃には、すでに本部朝勇同門屋部憲通とともに若手唐手家としてその武名広く知られ本部足蹴り」とまで異名ととるようになる屋部とともに泊手大家松茂良興作宅へ出かけ、松茂良の力量試した逸話伝えられている。また、弟の本部朝基那覇にあった遊郭辻町夜な夜な出かけて、「掛け試し一種の野試合)」に励んだのも、当初組手(変手)で兄・朝勇にかなわなかったのが理由とされる。弟の朝基剛拳である唐手の雄として後年名を成したに対して、朝勇は当時著名な大家をその邸宅招いては、唐手のほかに、取手術、剣術馬術など、幅広い武術網羅的修行していた。

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武歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 11:28 UTC 版)

松村宗棍」の記事における「武歴」の解説

松村は、幼少の頃より武に優れ口碑では唐手(とうで)を佐久川寛賀学んだとされる。ただしこの口碑証明する明確な史料がない事から、これに疑問を呈する研究者もいる。松村178歳の頃には、すでに武術家として頭角現し始めたという。成人してから、松村役人として薩摩渡り伊集院弥七郎から示現流学び免許皆伝得たとされる剣術家でもあった。また1836年天保7年)、松村宗棍師匠佐久川寛賀と共に北京渡り勉学かたわら北京王宮武術教官「イワァー」のもとで、中国武術学んだとも伝えられる一年後に、北京師匠佐久川客死したため、遺骨抱いて琉球帰国した八卦掌門派に伝わる系譜雑記には、1839年2月北京の善撲館で日本剣術妙技披露し、これと仕合して勝てる者がおらず師範礼遇受けた琉球人記述があり、当時琉球王府士分日本剣術免許受けたのは松村のみであり、また初太刀一本をもって悉く打ち破るという記述示現流特色一致する事からこの琉球人松村であると確定して良かろうと『格闘技歴史藤原稜三』にはある。また系譜雑記には「日本剣術静止して動かず一瞬電光の間に勝負決する恐ろしい刀法である。しかし、その技量達す為に中国の武術家より10倍以上の厳し稽古を積まねばならない。だから名人の数は少ない。かつて北京にやってきた琉球人中に日本剣術を使うものがいたが、これと仕合して勝つものがいなかった。しかしこの琉球人は自ら称して、私の技量はわが流儀においてすら中位程度のものに過ぎない。また他流技量を知る立場に無いと言えども、わが流に劣るものはない」との記述がある。。 帰国後、松村第二尚氏王統17尚灝王18尚育王19尚泰王三代わたって御側守役要人警護職)をつとめた。ただし、王府役職制度に「御側守役」という役職名存在しないので、これは私的もしくは臨時役職であったのだろう。また、松村役職かたわら国王武術指南役つとめたと言われる。なお、松村の妻・与那嶺ツル女流唐手であったと言われる

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武歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 03:24 UTC 版)

喜屋武朝徳」の記事における「武歴」の解説

喜屋武朝徳は、幼少の頃にまず父より兄朝弼と共に相撲の手ほどきを受けた。そして、15歳数え年)の時に父から正式に唐手師事した16歳になると、父を介し年間松村宗棍指導を受け五十四歩を教わったその後父について上京し二松学舎(現・二松学舎大学)で三島中州より漢学学んだ喜屋武朝徳東京滞在中も父とともに唐手鍛錬励んでいたという。東京には約9年滞在し26歳の時帰郷した帰郷後、喜屋武朝徳は、泊手大家松茂良興作親泊興寛らに師事した。他にも、真栄田親雲上らにも師事したとされる38歳の頃、喜屋武読谷村牧原移住して、そこで養蚕荷馬車引きをしながら生活を維持した廃藩置県以後は他の没落士族と同様、いかに名家出であろうと、喜屋武このように困窮した生活を送らざるを得なかったのである。しかし、移住したことで、喜屋武読谷村に住む北谷屋良(チャタンヤラ)(1740年 - 1812年 )の後裔北谷屋良利正とも)から公相君(現・北谷屋良公相君)の型を学ぶことができた。その後喜屋武1910年明治43年)には読谷村比謝橋に居を構え沖縄県立農林学校1945年廃校)、嘉手納警察署などで唐手指導した1924年大正13年)、喜屋武那覇大正劇場開催された「唐手演武大会」に、本部朝勇摩文仁賢和とともに参加したまた、この年那覇旭が丘設立された「沖縄唐手研究倶楽部」にも参加。このクラブには、喜屋武の他に本部朝基宮城長順許田重発など、当時の諸大家参加していた。また、喜屋武流刑された徳嶺親雲上師事するために八重山訪れたが、すでに徳嶺は死去しており師事することはできなかった。その代わり徳嶺から棒術習った地元の人より「徳嶺の棍」を習うことができた。

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武歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 01:55 UTC 版)

知花朝信」の記事における「武歴」の解説

知花1899年明治32年8月15歳数え年)の時、首里手大家糸洲安恒唐手(現・空手)を師事するようになった知花によれば当初、なかなか入門許してもらえず、三度目にしてようやく入門許可されたという。これは、少年であった知花やる気を試す糸洲深慮であった糸洲の下で、知花28歳までの13年間、唐手修行した知花その後3、4年間独自に修行行い1918年大正7年)、34歳時に堀町道場開設翌年には那覇区久茂地町に道場移設した。また、1926年大正15年)、「沖縄唐手研究倶楽部」に、本部朝勇花城長茂摩文仁賢和とともに参加した沖縄唐手研究倶楽部は、唐手共同研究目的として設立されたもので、当時沖縄唐手の諸大家多数参加していた。1933年昭和8年)、知花自身空手小林流命名した1939年(昭和14年6月大日本武徳会沖縄支部武徳殿開殿式において大日本武徳会長、林銑十郎はやし せんじゅうろう陸軍大将下関係者を招いて行われた記念演武会で「チントウ」の型を演武戦後知花首里に戻ると早速首里儀保町にて、空手指導再開した1948年昭和23年)、沖縄小林流空手道協会結成し初代会長就任した1954年昭和29年)から1958年昭和33年)までの4年間は、首里警察署空手師範つとめた

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武歴

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親泊興寛」の記事における「武歴」の解説

親泊は同じ泊士族宇久嘉隆(1800年-1850年)、照屋規箴(1804年-1864年)に師事した宇久からはナイファンチ照屋からはパッサイ、ローハイ、ワンシュー伝授された。 弟子としては喜屋武朝徳挙げられる。 この項目は、スポーツ関係者関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。

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武歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 14:20 UTC 版)

庄忠家」の記事における「武歴」の解説

三郎忠家は、寿永3年1184年)の一ノ谷の戦いにて、庄太家長児玉党本宗5代目)庄五郎方など他の兄弟と共に源氏方に仕えて奮戦し武功上げた児玉党武士である。『吾妻鏡』には、庄太家長と共に源範頼大手軍に従い、「庄司三郎忠家」の名で記されている(司は誤記)。文治5年1189年)では、源頼朝大手軍に従い、兄弘高などと共に奥州合戦にも参戦した『吾妻鏡』には彼の最後記載されている。承久3年1221年)に起きた承久の乱で、弟の庄五郎弘方や兄弘高の子息である庄四郎弘季と共に鎌倉幕府軍(北条泰時)に属して活躍するも、山城国宇治橋合戦では討死にしたとある。従って没年月日は、6月13日(あるいは14日)と考えられる

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