1系
1形
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1923年に梅鉢鉄工所で製造された木造車両。のちに外装に鋼板が張られ、半鋼製の車両となった。
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1形(3代)
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伊那電気鉄道が貨物列車牽引を目的として、1923年(大正12年)に新製発注した、40t級凸形車体を備える芝浦製作所(現・東芝)製の国産機であるデキ1形電気機関車を前身とする。伊那電気鉄道の戦時買収に伴って同形式も鉄道省籍に編入され、戦後ED31形の形式称号を付与されたのち、1955年(昭和30年)6月にED31 1とED31 2の2両が西武鉄道へ払い下げられ、同年8月に竣功し1形(3代)1・2を称した。なお、同2両は導入当初新1形とも呼称された。 1形(3代)は主に多摩川線において砂利輸送列車牽引に供されたのち、1960年(昭和35年)5月に2両とも近江鉄道へ譲渡された。当時近江鉄道は既にED31 3 - ED31 5の3両を日本国有鉄道(国鉄)より直接払い下げを受けて保有しており、同2両の譲渡によって、別途国鉄より上信電鉄へ払い下げられたED31 6を除く全6両中5両が近江鉄道に在籍することとなった。 詳細は「伊那電気鉄道デキ1形電気機関車」を参照
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1形(1、2)
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「北海道炭礦汽船夕張鉄道線」の記事における「1形(1、2)」の解説
1925年にドイツのオーレンシュタイン・ウント・コッペル社の250PSクラスを2両を輸入したもので、軸配置1C1、重量43.32t、全長9704mm、動輪径1100mm、固定軸距2400mm、シリンダ400mm×500mmと小型機の輸入が多いコッペル社製機関車としては貝島炭砿31、32(軸配置1C1、重量44.3t)のものに次ぐ大型機であった。なお、コッペル社の記録では北海道炭礦汽船の発注となっている。また、同型機5両がいずれも北海道の鉄道で使用されていた。
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1形 (1 - 34)
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「九州電気軌道」の記事における「1形 (1 - 34)」の解説
1911年6月の軌道線開業に際し用意された木造のボギー車で、初め24両 (1 - 24) が導入された。翌1912年に10両 (25 - 34) が増備されている。定員66人。
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1形
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開業に備えて1929年(昭和4年)に雨宮製作所で製造された全長13 mの半鋼製2軸ボギー車。モハ1 - モハ6の6両が製造され、廃止時まで主力として使用された。1954年(昭和29年)に集電装置をトロリーポールからビューゲルに交換している。廃止時点の車体塗装はオレンジ色であった。側面は両端に片開き扉があり、扉間に12枚の下降窓を配していた。高床構造ではあるが、甲府市内の路面区間を走行するため扉に折りたたみ式のステップを設置していた。ヘッドライトは後述の7形共々着脱式で、前面窓のすぐ下に取りつける方式だった。
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1形
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1893年ボールドウィン製の1-C-1タンク式・41.57t機(国鉄3390形)。全長9,824 mm、動輪径1,270 mm、使用圧力9.8 kg/cm2。1号機(旧国鉄3391、1924年払い下げ)、2号機(旧国鉄3392、1924年払い下げ)、3号機(旧国鉄3390、1925年払い下げ)の3機が在籍した。
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1形
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1909年の開業時に投入された車両。ただし、走り始めた時期は後述の11形よりも遅い。日本車輌製造製のボギー車で、前後に扉のあるダブルルーフ車。開業時に7両、翌1910年に3両が投入され10両となった。うち2両は1911年に貨車へ改造されたが、1920年に復旧している。
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1形 (1-12, 21→162-174)
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「西鉄大牟田市内線」の記事における「1形 (1-12, 21→162-174)」の解説
4輪単車。13両中10両は大牟田市内線休止後、長崎電気軌道に譲渡され110形となる。
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1形(相模鉄道)
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「相模鉄道の蒸気機関車」の記事における「1形(相模鉄道)」の解説
1924年・1926年にそれぞれ2両が汽車製造(汽車会社)で製造された軸配置Cのタンク機関車で、1 - 4の4両が在籍。1944年6月の相模線買収により鉄道省に編入され、1355形1355 - 1358となった。 詳細は「国鉄1355形蒸気機関車」を参照
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1形(神中鉄道)
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「相模鉄道の蒸気機関車」の記事における「1形(神中鉄道)」の解説
1920年米ポーター製の軸配置Dのタンク機関車で、1・2の2両が在籍した。日本国内では数少ないD形タンク機関車で、1926年の開業・3形増備以降は貨物用として使用された。相模・神中合併による相鉄発足で旧相模1形の続番の5・6に改番されている。 1950年の貨物線電化により余剰となり、翌1951年に廃車された。
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1形 (No.1, 2)
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「東濃鉄道駄知線」の記事における「1形 (No.1, 2)」の解説
駄知鉄道自社発注の雨宮製作所製の20tのC形蒸気機関車。電化後も予備機関車として使用された。
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1形
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「長崎電気軌道の4輪単車」の記事における「1形」の解説
1915年(大正4年)の開業時に1 - 10の10両が製造された。車体は神戸市にあった高尾造船所で製造し、台車・電気機器は阪神電気鉄道から購入した。車体は木造で、前後にオープンデッキ式の出入台を設け、屋根は前後端を丸くした二重屋根とし、側面の出入台間に8枚の側窓を設けた。側面窓上の幕板には明かり取り用の小窓を設けている。塗装はあずき色一色とし、前面、側面窓下に唐草模様を入れた。 3・5・6・8・9・10は1921年(大正10年)5月23日の茂里町車庫火災で、7は1944年(昭和19年)10月10日の大橋車庫火災で、2は1945年(昭和20年)8月9日の原爆投下でそれぞれ焼失した。 戦後は1・4の2両が残ったが、1は1953年(昭和28年)に西日本鉄道(西鉄)福岡市内線で廃車となった木造4輪単車の車体に載せ替えられて有明形となり、旧車体は改造されて運搬車101となった。4は1952年に事故で破損し、翌年、自社蛍茶屋工場で新製した車体に載せ替えられた。原爆投下で被災した2は1949年(昭和24年)に自社蛍茶屋工場で製造した新製車体に載せ替えられた。 1は車体載せ替え後の1954年(昭和29年)に121の車体に振り替えられたのち、1959年(昭和34年)に西鉄福岡市内線から譲り受けた160形・170形に代替され廃車となり、2は1962年(昭和37年)に360形の新製に伴い廃車となった。4は1967年(昭和42年)に53の車体と振り替えられたのち、1969年(昭和44年)に廃車となった。 運搬車101は1972年(昭和47年)に廃車となった。
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1形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 08:52 UTC 版)
1940年以降、常時2両以上での運転を行うためモ1 - 8を制御車に改造して電装品を、木南車輌製造で車体を新造した100形に転用し、モ9 - 16と組み合わせて電動車-制御車の2両固定編成を作ることが計画された。しかし1940年、制御車に改造予定であったモ8(初代)が火災で焼失し廃車となったため、100形の制御車ク150形(159)を1両余分に製造して補充した。モ1 - 7(いずれも初代)は計画通り改造され、ク50形55 - 61と改番・編入されて2連8編成体制となったが、前記の焼失車両があったため1本はモ1形とク150形の組み合わせとなった。 ←大牟田 西鉄福岡→ モ9-ク56 モ10-ク61 モ11-ク59 モ12-ク58 モ13-ク60 モ14-ク57 モ15-ク53 モ16-ク159 1945年、電動車のモ9 - 16がモ1 - 8(いずれも2代)に改番されている。 ←大牟田 西鉄福岡→ モ1-ク56 モ2-ク61 モ3-ク59 モ4-ク58 モ5-ク60 モ6-ク57 モ7-ク53 モ8-ク159 1951年、輸送需要増加に伴い編成を3両または4両固定編成とする大規模な編成組み替えが行われ、以下のような改造が施された。 モ1・3・5・7:福岡側の運転台を撤去、片運転台化 モ2・4・6・8:運転台をすべて撤去、中間電動車化 ク55・57・58・61:大牟田側の運転台を撤去 ク56・59・60:運転台をすべて撤去、付随車(サ)化 これにより編成は以下のように組み替えられた。 ←大牟田 西鉄福岡→ モ1-サ56-モ2-ク61 モ3-サ59-モ4-ク58 モ5-サ60-モ6-ク57 モ7-モ8-ク55 この編成組み替えの際、先頭車には独立した全室式運転室が新設され、運転台脇にある扉をつぶして乗務員用扉を新設した。扉の移設などは全く行われず、先頭車は中央部と連結面寄り車端部に1か所ずつの扉がある変則的な扉配置となった。また編成中間の連結面には貫通路を新設している(当時は電車の貫通化が全国各地で進められていた)。 1954年、本形式を4両編成3本、3両編成1本から3両編成5本に組み替えることになった。そこで4両編成3本の付随車サ56・59・60を編成から抜き取り、100形のモ103・106がカルダン駆動方式の実用試験車に改造されたことで発生した主電動機を利用してサ59・60を再電装の上、モ10・モ9(いずれも2代)と改番し、大牟田側からモ9-モ10-ク56の新編成とした。 1958年から1960年にかけて全車とも車体の鋼体化を実施し、20形(のちの120形)となった。番号は電動車が元の番号に20をプラスした番号で、制御車は元の番号のままである。 鋼体化以降の動向は西鉄20形電車の記事で詳述する。
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1形(2代)
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戦後、西武鉄道が自社発注した凸形車体を備える35 t級電気機関車。詳細は後述。
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