西成線列車脱線火災事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 04:37 UTC 版)
事故原因
本件事故の直接の原因は、列車が通過中にもかかわらず信号係が分岐器を転換したことである。信号係が転換操作を急いだ背景には、戦時体制下の社会情勢において戦略物資である燃料を節約するためであったが、列車通過中に分岐器を動かせる設計であったことが事故発生の最大要因である。
通常、分岐器には鎖錠装置などと総称される様々な安全装置が付けられており、そのうちの「轍査鎖錠」装置によって列車通過中は分岐器が固定されて切り替えることができないようになっている。この装置は東海道線などの複線の幹線には設置されていた。事故現場にも元々は設置されていたが、事故前に撤去されていた。したがって事故当時の西成線には同装置は備え付けられていなかった[6][7][注釈 4]。
列車が通過中にもかかわらず分岐器が切り替わる事故は、1926年(大正15年)4月9日に横浜の桜木町駅構内で既に発生していた[8]。この事故は、鎖錠装置があったにもかかわらず、日常的に列車通過中に分岐器を切り替える不正な操作を行っていたため、分岐器が疲労破損して事故に繋がったものである。事故の状況は、上りの京浜電車5両編成が桜木町駅を出発した直後に3両目が分岐器の上で脱線し、4両目と5両目が編成から切り離されて下り線を逆走し始めた。そのときに桜木町駅に到着しようとしていた別の下り京浜電車は、下り線を逆走してくる事故車両に気付いて駅の手前で緊急停車し、下り線を後退して逆走車との衝突を回避しようとしたが、2両の逆走車に追いつかれてしまい、双方の列車は下り線上で衝突した。この事故(桜木町)では衝突速度も遅かった為、幸いにも人的被害は最小にとどまり、大事故には至らなかった。なお、桜木町の事故では分岐器を切り替えた信号係が起訴され、裁判により有罪判決を受け、罰金200圓(旧円)の刑事処分を科せられた。
このように、実際に本件事故と類似の事故が過去に起きていたにもかかわらず、事故の教訓を活かして再発を防止する対策が取られておらず、安全を優先する意識の欠如があったとの指摘もある。すなわち、人間が通常ありえない操作を意図的に行うことを前提にして、人為的ミスが重大な結果を招かないようにする「フールプルーフ」が重要視されていなかった。
注釈
- ^ 事故車はその車両番号から「死に頃」「死に丸殺し」と呼ばれた[3]。
- ^ 1944年12月に起きた沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故の死者数は約220名で、この事故を上回るが、戦時中に起きた事故のため、報道されず、現在も不明な点も多い。
- ^ 事故車両となったキハ42000形は当時の国鉄旅客車には珍しく鋼板張り屋根を用いていたため、横転した車両の屋根に穴を開ける救出方法が採れず、これも犠牲者を増やす要因となった。
- ^ この装置は大正時代には実用化され、主要路線には導入されていた。
- ^ 刑法第11章「往来を妨害する罪」には「 汽車又ハ電車ヲ・・・」とあり、ガソリンカーや気動車についての規定はないが、前年に起きた中勢鉄道のガソリンカー転覆事故について大審院(現在の最高裁)は、「立法趣旨に鑑みて本質的にガソリンカーも汽車に含まれる」と判断し、1940年(昭和15年)8月22日に有罪判決を下している(中勢鉄道青谷車両脱線事故)。
- ^ 裁判の判決では犠牲者は「193名」とされているが、訂正されず誤りのまま確定している。
出典
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