無癩県運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/30 13:57 UTC 版)
無癩県運動の影響
患者、家族、親族などに対する影響としては、日常生活、教育、学校教育、スティグマ (ハンセン病)、偏見、差別、結婚、村八分などがある。
1954,55年及び1940年のデータ
無癩県運動の推移を示すために1940年末の未収容患者数と、1955年年頭ー年末の未収容患者数を示す[注 9]。
都道府県 | 1954年12月未収容患者数 | 本年中患者増加数 | 減少数 | 1955年末未収容患者数 | 1940年年末の未収容患者数 |
---|---|---|---|---|---|
北海道 | 5 | 7 | 6 | 6 | 23 |
青森県 | 31 | 4 | 8 | 27 | 220 |
岩手県 | 42 | 3 | 12 | 33 | 66 |
宮城県 | 18 | 7 | 6 | 19 | 7 |
秋田県 | 43 | 6 | 5 | 44 | 119 |
山形県 | 23 | 5 | 13 | 15 | 63 |
福島県 | 17 | 7 | 8 | 16 | 80 |
茨城県 | 4 | 8 | 11 | 1 | 53 |
栃木県 | 14 | 2 | 14 | 2 | 63 |
群馬県 | 2 | 7 | 5 | 4 | 393 |
埼玉県 | 5 | 9 | 11 | 2 | 19 |
千葉県 | 15 | 2 | 12 | 5 | 14 |
東京都 | 9 | 29 | 29 | 9 | 112 |
神奈川県 | 0 | 11 | 9 | 2 | 50 |
新潟県 | 16 | 1 | 5 | 12 | 53 |
富山県 | 7 | 4 | 6 | 5 | 22 |
石川県 | 14 | 2 | 4 | 12 | 41 |
福井県 | 16 | 9 | 9 | 16 | 50 |
山梨県 | 3 | 5 | 6 | 2 | 39 |
長野県 | 1 | 2 | 1 | 2 | 54 |
岐阜県 | 27 | 6 | 6 | 27 | 161 |
静岡県 | 7 | 13 | 15 | 5 | 120 |
愛知県 | 87 | 26 | 49 | 65 | 356 |
三重県 | 73 | 25 | 35 | 63 | 106 |
滋賀県 | 9 | 8 | 7 | 10 | 86 |
京都府 | 29 | 14 | 12 | 31 | 64 |
大阪府 | 78 | 38 | 33 | 83 | 337 |
兵庫県 | 92 | 27 | 42 | 77 | 242 |
奈良県 | 8 | 12 | 12 | 8 | 67 |
和歌山県 | 13 | 3 | 7 | 9 | 91 |
鳥取県 | 22 | 2 | 7 | 17 | 41 |
島根県 | 18 | 5 | 6 | 17 | 96 |
岡山県 | 16 | 5 | 7 | 14 | 32 |
広島県 | 26 | 11 | 9 | 28 | 58 |
山口県 | 12 | 10 | 12 | 10 | 10 |
徳島県 | 30 | 8 | 8 | 30 | 77 |
香川県 | 15 | 8 | 10 | 13 | 121 |
愛媛県 | 13 | 18 | 17 | 14 | 84 |
高知県 | 6 | 23 | 15 | 14 | 175 |
福岡県 | 19 | 23 | 24 | 18 | 97 |
佐賀県 | 7 | 8 | 8 | 7 | 90 |
長崎県 | 62 | 14 | 38 | 38 | 172 |
熊本県[注 10] | 121 | 26 | 53 | 94 | 629 |
大分県 | 46 | 8 | 14 | 40 | 114 |
宮崎県 | 50 | 11 | 22 | 39 | 278 |
鹿児島県 | 195 | 18 | 105 | 108 | 567 |
沖縄県 | ?(未復帰) | ?(未復帰) | ?(未復帰) | ?(未復帰) | 761 |
合計 | 1,366 | 500 | 753 | 1,113 | 6573 |
謝罪声明
真宗大谷派の謝罪声明
謝罪声明
- 前略 我が国における「らい予防法」は、一九〇七年その原型である「法律第十一号 らい予防に関する法律」が成立しました。その後、一九三一年には患者の「強制隔離」の条項を盛り込んだ大幅な改正が行われ、隔離の必要性が科学的に否定された後、一九五三年に若干の改正を経るも「隔離」の条項はそのまま引き継がれ、現在に至っていましたが、「全国ハンセン病患者協議会」を中心とした各層の長年の運動によって、さる3月27日ようやく廃止されました。
- そもそもこの法律は非感染者の安全のために感染者の”隔離”を目的として作られたものであったのです。病そのものでなく、病気になった人を社会から抹殺するような「らい撲滅」のスローガンに象徴されるように、そこには不都合なものを排除することで、排除した側だけの「安全な社会」ができるとする社会体質が背景として存在していました。この法律は、病としては一つの感染症に過ぎないらいについて法を後ろ盾にしながら強制隔離を必要とするような、恐ろしい病気であるという誤った認識を社会に植え付け、国の隔離政策を正当化するものとして機能してきました。
- 一九三一年、真宗大谷派はらい予防法の成立にあわせ、教団を挙げて「大谷派光明会」を発足させました。当時から隔離の必要がないことを主張された小笠原登博士のような医学者の存在を見ず、声を聞くこともないままに、隔離を主張する当時の権威であった光田健輔博士らの意見のみを根拠に、無批判に国家政策に追従し、隔離という政策決定に大きな役目を担っていきました。私たち真宗大谷派教団は、その時代社会の中にあって、その法律のもつ意味を正しく認識することができず、国家による甚だしい人権侵害を見抜くことができなかったといわなければなりません。(中略)
- 確かに一部の善意のひとたちによっていわゆる「慰問布教」はなされてきましたが、それらの人たちの善意にもかかわらず、結果としてこれらの布教のなかには、隔離を運命としてあきらめさせ、園の内と外を目覚めさせないあやまりを犯したものがあったことも認めざるをえません。(中略)
- 今、療養所の内と外から発せられる糾弾の声に向き合うとき、私たちの教団は四海同胞という教えにそむいたことを懺悔せざるをえません。本当に申し訳ないことです。真宗大谷派は、これらの歴史的事実を深く心に刻み、隔離されてきたすべての「患者」と、そのことで苦しみを抱き続けてこられた家族・親族に対して、ここに謝罪したします。(後略) — 真宗大谷派宗務総長 能邨英士、平成八年四月[40]
各県知事の謝罪訪問
- 2001年(平成13年)5月11日に出された、熊本地方裁判所におけるらい予防法違憲国家賠償訴訟判決及び日本国政府声明を受けて、都道府県知事は国立ハンセン病療養所を訪問し、入所者に無癩県運動に対する謝罪をした。
注
- ^ 1997年には増補版が出版されている。
- ^ ハンセン病国賠訴訟熊本地裁判決の判決文や熊本日日新聞社編『検証・ハンセン病史』、『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』(2005年) などは、無癩県運動に関する基本的な事実関係について、山本俊一著『日本らい史』によっている。
- ^ 愛知県には、無癩県運動の資料が残されている[5]。
- ^ 熊本県では戦後の方が盛んであった。熊本の無癩県運動については、2011年(平成23年)現在、熊本県により検討が重ねられている。[要出典]
- ^ 太平洋戦争前の無癩県運動は、患者の収容等に関して警察部衛生課が扱っていた。戦前の警察の管轄は戦後とは異なり、その範囲は広大で、公衆衛生部門も扱っていた。
- ^ 『ハンセン病と真宗』 p83、p65には、内務大臣や光田の動静、宮内省の動きなどが詳しく記載されている。
- ^ 大阪皮膚病研究会のあゆみ 1929-2003 大阪皮膚病研究会史刊行委員会 2003 p104 に、以前の大阪府警察署長殿と印刷してある所を兵庫県知事殿と書きなおした診断書がでている昭和25年5月19日付けである。
- ^ 当初、賀川は、イエス・キリストの癩を清めよという命令を謹んでこの運動を進めたいと言っていたが、その後MTLは日本中のハンセン病患者をすべて隔離し、ハンセン病患者のいない日本を日本人自身の手で建設することであり、その理想は「民俗浄化」という言葉で表現された、とある。『戦争とハンセン病』 藤野豊 p120 吉川弘文館 2010, ISBN 978-4-642-05687-8
- ^ 日本のらいについて Leprosy in Japan 1955, 藤楓協会 このデータは、一部をまとめて出した。即ち増加と減少は、細別してあるが、意味がよくわからないので、増加と減少にした。また、「鳥取県無らい県運動」による、1940年末の未収容者数を追加した
- ^ 熊本県におけるらいの趨勢 熊本県衛生部長 蟻田重雄 1955年3月 近現代日本ハンセンビョウ問題資料集成 第4巻 不二出版。この本に警察から移管された時は推定450名、昭和24,25年に一斉検診し昭和26年27年約250名を菊池恵楓園に入所させ、現在は未収容137名としている
出典
- ^ a b c d “ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書” (pdf). 2019年10月27日閲覧。
- ^ 宮坂道夫『ハンセン病重監房の記録』集英社新書、2006年、92頁。ISBN 9784087203394。
- ^ 内田博文『ハンセン病検証会議の記録』明石書店、67頁。ISBN 9784750322940。
- ^ a b c 山本俊一『増補版 日本らい史』東京大学出版会、1997年、127頁。ISBN 4-13-060404-X。
- ^ a b c 熊本日日新聞編『検証・ハンセン病史』河出書房新社、2004年、301頁。ISBN 9784309243078。
- ^ a b 内田『記録』p.37.
- ^ ハンセン病市民学会年報 2007 p44-53
- ^ 杉山博昭 『山口県におけるハンセン病対策の展開 -無らい県運動期を中心に-』山口県史研究 第14号 2006 p46
- ^ 『差別者のボクに捧げる』 三宅一志 晩聲社 1978
- ^ 『鳥取県の無らい県運動』 鳥取県史ブックレット2 2008 鳥取市
- ^ a b c “隔離の歴史、残す写真 鳥取市の市民劇団”. 朝日新聞社. 2021年12月30日閲覧。
- ^ 『ハンセン病無らい県運動の発端について』 佐藤労 ハンセン病市民学会 年報2007, 44-53,
- ^ 高山文彦『火花―北条民雄の生涯』飛鳥新社、1999年、199-200頁。ISBN 9784822870096。
- ^ a b c 熊本日日新聞編『検証』p.303.
- ^ 2003年度ハンセン病問題検証会議報告書 2004.4
- ^ 『鳥取県の無らい県運動』 鳥取県 2008
- ^ 『ハンセン病とキリスト教』 荒井英子 岩波書店 1996
- ^ 潮谷総一郎,本妙寺癩窟,日本談義,23号,昭和27年(1952年).
- ^ ハンセン病市民学会年報 2007 p60,
- ^ 福田令寿 『百年史の証言』 熊本日日新聞社 1971 p369
- ^ 『鳥取県の無らい県運動』 p87
- ^ 鳥取県の無らい県運動 p88, 集成、補巻14,48ページ
- ^ 戦争とハンセン病 藤野豊 p104,2010 ISBN 978-4-642-05687-8
- ^ http://homepage2.nifty.com/oshiro/yagaue.html 屋我地島におけるドン・キホーテ上巻
- ^ http://homepage2.nifty.com/oshiro/yagashita.html 屋我地島におけるドン・キホーテ下巻
- ^ 日本のらいについて 藤楓協会 東京都 1955
- ^ a b c d e f g h 藤野豊『「いのち」の近代史―「民族浄化」の名のもとに迫害されたハンセン病患者』かもがわ出版、2001年、135頁。ISBN 4876995877。
- ^ 成田稔『日本の癩〈らい〉対策から何を学ぶか』明石書店、2009年、251頁。ISBN 978-4-7503-3000-6。
- ^ a b 成田『何を学ぶか』p.252.
- ^ 姜信子 編『谺雄二詩文集 死ぬふりだけでやめとけや』みすず書房、2014年、304頁。ISBN 9784622078302。
- ^ a b 谺『詩文集』p.305.
- ^ 山口県におけるハンセン病対策の展開 p58
- ^ 真宗大谷派ハンセン病に関する懇談会編集 差別と人権に関する学習資料集「ハンセン病と真宗」1998年10月1日
- ^ 小笠原登 ハンセン病強制隔離に抗した生涯 真宗ブックレット p43 2003
- ^ 鳥取県の無らい県運動 p56全国にトップを切って一躍無らい県ん実現へ 合同新聞山陰版 1937年1月10日
- ^ 鳥取県の無らい県運動 p56,57中国民報 1936年5月15日や同新聞社 1936年8月14日
- ^ 鳥取県の無らい県運動 p58
- ^ 山口県におけるハンセン病対策の展開 p51-55
- ^ 鳥取県の無らい県運動 p28
- ^ 真宗大谷派宗務総長 能邨英士『ハンセン病と真宗』p120, - 日時ははっきり書かれていないが、前後の事情で平成8年4月(1日か)と思われる。
- ^ 藤楓だより 平成14年度p14
- ^ 平成13年 「菊池野」
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