板垣氏
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板垣氏関連年表
- 板垣入道 - 1275年(建治元年5月)、『造六条八幡新宮用途支配事』文書の甲斐国に「板垣入道跡 三貫」とあり。他阿真教と活動を共にした「板垣入道」とも同時期の人物[9]。
- 板垣三郎左衛門 - 1352年(観応3年閏2月)、武蔵野合戦の時、武田信武・信成に従い板垣三郎左衛門が参陣する[10]。
- 板垣四郎 - 1352年(観応3年閏2月)、武蔵野合戦の時、武田信武・信成に従い板垣四郎が参陣する[10]。
- 板垣兼光 ? - 1435年(永享3年6月)板垣氏が、常陸国久慈郡佐竹郷の長倉遠江守追討に参加する。
- 板垣兼光? - 1445年(文安2年)板垣松溪法貞禪定門が、於曽郷と萩原郷を向岳庵に寄進する[11]
- 板垣善満 - 1490年(延徳2年12月17日)板垣善満が没する[12]。
- 板垣備州 - 1502年(文亀2年12月10日)、板垣氏が願文を納める。
- 板垣備州 - 1515年(永正12年10月17日)、板垣備州が甲斐国[注 7]上野城(椿城)で討死[12][13]する(上野城の戦い)。
- 板垣伯耆守 - 1515年(永正12年10月17日)、板垣伯耆守が討死する(上野城の戦い)。
- 板垣信泰? - 1520年(永正17年6月10日)、板垣氏が武田信虎に従い[注 8]大井信達勢と戦う(今諏訪の戦い)。
- 板垣左兵衛佐[注 9] - 1525年(大永5年2月25日)板垣左兵衛佐が、湯薬種田を寄進する[14]。
- 板垣信泰 - 1525年(大永5年)板垣右兵衛尉信泰が、湯薬種田を向岳庵に寄進する[15]。
- 板垣信方 - 1530年(享禄3年)、かつては、富士山二合目鎮座の冨士御室浅間神社の近くにあった騮ヶ馬場と、勝山(富士河口湖町)で行われ奉納されていた流鏑馬神事が、村間の争いが激しくなっていったため、板垣信賢(※板垣信方のこと)の達により、各々の村で奉納されるようになった(詳細は小室浅間神社の項を参照)。
- 板垣信方 - 1540年(天文9年3月)、板垣駿河守信方が、山梨郡宇多田を向岳庵に寄進する[16]。
- 板垣信方 - 1540年(天文9年5月上旬)、武田信虎が、宿将・板垣信方に令して信州佐久の数城を陥し、前山城を築く[17]。
- 板垣信方 - 1541年(天文10年)武田八幡宮宝殿棟札に「信方」の署名あり[18]。
- 板垣信方 - 1542年(天文11年9月26日)、武田方駒井高白斎、伊那郡に入り藤沢口より福与城の藤沢頼親を降す。この時、板垣信方は伊那に進攻する[17]。
- 板垣信方 - 1543年(天文12年4月6日)、武田晴信が、板垣信方を諏訪郡代に任じ、上原城を普請させ、信濃攻略の基地とする。
- 板垣信方 - 1543年(天文12年7月)、板垣信方が、諏訪上社権祝に対し、諏訪郡下桑原の御射山神田を安堵する。
- 板垣信方の母 - 1543年(天文12年8月23日)、板垣駿河の母が歿する[12]。
- 板垣信方 - 1545年(天文14年6月1日)、板垣信方が加勢して竜崎城を陥す[注 10]。
- 板垣信方 - 1545年(天文14年10月22日)、駿河・相模の和議を計るため、板垣信方、駒井高白斎が奔走する[注 10]。
- 板垣信方 - 1547年(天文16年6月7日)、板垣駿河守信方が、山梨郡於曽郷の内、一貫二百文を向岳庵に寄進する[16]。
- 板垣信方 - 1548年(天文17年2月14日)、板垣駿河守信方が討死[13][17][注 10]する(上田原の合戦)。
- 板垣信憲 - 1551年(天文20年)、板垣弥次郎信憲と甘利左衞門尉昌忠が「両職」として在職していることを表す文書あり[19]。
- 板垣信憲 - 1551年(天文20年7月)、板垣信憲が、甘利昌忠と連署で二宮造営の勧進状を発す[20]。
- 板垣信安の父 - 1553年(天文22年4月23日)、於曽源八郎が討死する[注 10]。
- 香坂宗重 - 1556年(弘治2年5月12日)、香坂宗重(筑前守)に八郎丸郷百貫之内、65貫400文を速かに奉納するべく求める[注 11]。
- 板垣信憲 - 1557年(弘治3年7月)、信濃小谷城攻めに「板垣信憲」名前が見える[注 12]。
- 板垣信憲 - 1557年(弘治3年8月)以降、板垣信憲が罪を蒙って誅されたため、板垣家は一旦断絶する[注 13]。
- 板垣信安 - 1558年(永祿元年)頃、武田信玄の命によって、信方の女婿である「於曽左京亮信安」が、信憲の遺跡を嗣ぎ一旦断絶していた「板垣氏」を再興する[注 14]。
- 板垣信安 - 1572年(元亀3年3月9日)、板垣左京亮信安が、「山梨郡板垣郷之内、五拾疋之所」を菅田天満宮に寄進する[11][注 14]。
- 板垣信安 - 1572年(元亀3年6月)、板垣左京亮信安が、山梨郡於曽郷を冨士御室浅間神社[注 15]に寄進する[11]。
- 板垣信安 - 1572年(元亀3年)板垣左京亮信安が、六所明神に寄進する[注 14]。
- 板垣修理亮 - 1582年(天正10年6月12日)板垣信安の嫡子・修理亮が、真田昌幸に仕える[21]。
- 板垣正信 - 1590年(天正18年10月7日)、板垣信憲の嫡子・加助が、山内一豊に仕え、乾加兵衛正信と称す[22][11][注 16]。
- 板垣修理亮 - 1600年(慶長5年)、主家・真田昌幸が、関ヶ原の戦いで西軍についたため改易となり、召抱えを解かれる。
- 板垣喜右衛門 - 1602年(慶長7年)板垣喜右衛門が、山内一豊に召し抱えられる[23]。
- 板垣半右衛門 - 1605年(慶長10年)、板垣修理亮の子・半右衛門が、堀尾忠晴に仕える[24]。
- 諸星信茂 - 1635年(寛永12年)、板垣修理亮の外孫・諸星信茂が、幕府・御書院番与力に召し加えられる[25]。
- 板垣知貞 - 1651年(慶安4年)、板垣知貞が前田利常に仕え、以後代々加賀藩士となる[6]。
- 板垣退助 - 1868年(慶応4年)、正信の系譜。戊辰戦争で東山道総督府参謀を務めていた際に、乾を板垣に改める。同家は後に華族の伯爵家に列せられる[26]。同家については板垣家 (伯爵家)を参照。
注釈
- ^ 西山梨郡板垣村、のち里垣村板垣(他の字名に酒折(坂-)・善光寺・東光寺)。現・山梨県甲府市善光寺、酒折、東光寺、東光寺町、愛宕町。より厳密には善光寺町。柴宮神社、甲斐善光寺(および善光寺町(門前町))、酒折宮などの所在地[1][2][3]
- ^ 『矢継原合戦記』によると「地黒菱」。この「菱」とは「四つ割菱(武田菱)ではなく、住吉大社の神紋にちなむ「花菱」のことである。
- ^ 後の天正18年(1590年)乾正信が、山内一豊に初めて召抱えられたとき、板垣信方の孫であることを理由に板垣氏の始祖兼信の所領があった、遠江国榛原郡雙侶荘の近くの榛原郡勝間田麻生村を知行地として賜った。
- ^ 板垣信方の娘婿。実は於曾氏。永禄元年(1558年)、武田信玄の命によって板垣家を再興した。
- ^ 三枝守勝室
- ^ 永原一照の次男。
- ^ 後年における山梨県南アルプス市の上野地域。
- ^ 『王代記』(窪八幡神社の別当寺普賢寺の年代記で、戦国期の記録を含む。磯貝正義・服部治則監修『王代記』ほか『山梨県史資料編』、『武田史料集』新人物往来社(戦国史料叢書)などにおいて翻刻されている。
- ^ 「板垣左兵衛佐」と「板垣右兵衛尉」は史料の解読の差で同人のことか。
- ^ a b c d 『高白斎記』武田家取次の駒井高白斎(政武)の記した日記。所収範囲は、1498年(明応7年)から1553年(天文22年)。
- ^ 「八郎丸之郷百貫之内、定所務六十五貫四百文之分出置候、相残所者、速可奉納者也。仍如件。弘治二年五月十二日、香坂筑前守殿」『高野家文書』長野県上水内郡牟礼村(所収『山梨県史』資料編中世2、県外文書、長野県の部)
- ^ 『千野文書』による。
- ^ 『甲陽軍鑑(全20巻)』高坂昌信原著、春日惣次郎補訂、1656年(明暦2年)刊。『甲陽軍鑑』の説によると1552年(天文21年)に信憲が誅されて断絶したことになるが、この起年には疑義が指摘されており、近年の研究では1557年(弘治3年)説が正しいとされている。
- ^ a b c 『甲斐国志』松平定能編、江戸時代に編纂された甲斐国の総合地誌。『甲斐志料集成』『甲斐叢書』『大日本地誌大系』などに収録されている。
- ^ 富士勝山浅間社ともいう。
- ^ 『南路志』による。
- ^ 『寛政重修諸家譜』によると旗本酒依氏は、板垣信方の二男板垣清三郎昌光の子酒依昌吉を初代とする。
- ^ 『静岡県姓氏家系大辞典』によると、静岡県賀茂郡河津町に、板垣隼人の子孫とする伝承を有する家があるという。
- ^ 文政・天保年間の上野国佐位郡下植木村名主・板垣彦七、板垣宅右衛門など、下って分家筋に板垣源四郎(初代伊勢崎市長、1940年(昭和15年)就任)、直系に板垣栄作(伊勢崎市議会議長、1977年(昭和52年)就任)がいる。
出典
- ^ 甲府市編入の町名改称の件
- ^ 見て歩く甲斐武田氏の史跡 3 — 甲府市内 旧板垣村付近
- ^ 柴宮神社
- ^ 『国立歴史民俗博物館研究報告 第45集』p.373。「「六条八幡宮造営注文」について」海老名尚、福田豊彦、1992、「造六条八幡新宮用途支配事」甲斐国 板垣入道跡
- ^ 『信州神川合戦の事(所収『信州上田軍記』)』
- ^ a b 『(加賀藩)諸士系譜』
- ^ 『加賀藩給帳』
- ^ 『金澤古蹟志(巻16)』』
- ^ 『遊行上人縁起絵』巻8
- ^ a b 『太平記』
- ^ a b c d 『甲州古文書』
- ^ a b c 『一蓮寺過去帳』
- ^ a b 『勝山記』
- ^ 『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 板垣駿河守信方関連項目
- ^ 吉川弘文館『戦国人名辞典』
- ^ a b 『向嶽寺文書』
- ^ a b c 『妙法寺記』
- ^ 『武田八幡宮宝殿棟札』より。
- ^ 『坂名井家文書』
- ^ 『美和神社文書』
- ^ 『信州神川合戦の事(所収『信州上田軍記』)』
- ^ 『御侍中先祖書系圖牒』元祖 生国甲斐(現: 山梨県)乾加兵衛(1608年卒)より第十板垣退助(1837 - 1919)までの系図を収録
- ^ 『四等士族上席年譜(巻1-イ-上)』土佐藩編纂
- ^ 『(加賀藩)諸士系譜』
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』、『諸星氏系譜』
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 136.
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