厳島丸 (タンカー)とは? わかりやすく解説

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厳島丸 (タンカー)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/02 01:49 UTC 版)

厳島丸
基本情報
船種 タンカー
クラス 川崎型油槽船
船籍 大日本帝国
所有者 日本水産(現・ニッスイ、1938年)
共同漁業(1938年-1943年)[1]
日本海洋漁業統制(1943年-)[2]
運用者 日本水産(1938年)
共同漁業(1938年-1941年)
 大日本帝国海軍(1941年-)
建造所 川崎造船所[3]
母港 東京港/東京都
姉妹船 川崎型油槽船12隻
船舶番号 44234
信号符字 JYQL
建造期間 244日
就航期間 2,503日
経歴
起工 1937年(昭和12年)4月21日[4]
進水 1937年9月4日[5]
竣工 1937年12月28日[6]
最後 1944年(昭和19年)11月1日沈没
1954年(昭和29年)4月26日浮揚後解体
要目
総トン数 10,006トン[5]
または10,007トン[3]
純トン数 5,807トン
載貨重量 13,400トン[5]
全長 153.39 m [5]
垂線間長 152.4 m [4]
型幅 19.80 m [5]
型深さ 11.32 m [5]
喫水 3.44 m (空艙平均)[5]
満載喫水 8.98 m (満載平均)[5]
主機関 川崎MAN D8Z70/120ディーゼル機関1基
推進器 スクリュープロペラ 1基
出力 10,000馬力(計画)[5]
最大出力 11,693馬力[4]
定格出力 11,000馬力[5]
最大速力 19.79ノット[5]
航海速力 17ノット[5]
航続距離 17ノットで16,000海里
乗組員 56名[5]
1941年(昭和16年)11月22日徴用
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厳島丸
基本情報
艦種 特設運送船(給油船)
艦歴
就役 1943年9月1日(海軍籍に編入時)
呉鎮守府部隊/呉鎮守府所管
除籍 1944年12月10日
要目
兵装 最終時
四一式12cm単装砲1門
九六式25mm機銃連装6基
同単装4基
爆雷18個
装甲 なし
搭載機 なし
ソナー 九三式水中聴音機1基
徴用に際し変更された要目のみ表記
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厳島丸(いつくしままる)は、日本水産(現・ニッスイ)が所有し、運航したタンカー。「厳嶋丸」と書くこともある[5][3][7]

船歴

南氷洋捕鯨

戦前の日本の捕鯨、特に南氷洋捕鯨は戦後のそれとは違って、捕鯨を行っていた他の国々と同様に鯨油の採取が主な目的であった。日本では鯨油の貯蔵や輸送、および捕鯨船団の各船に対する燃料補給用として、捕鯨母船に鯨油槽を装備しており、総トン数は15,000トンを超えていた[8]。しかし、日本水産が所有していた捕鯨母船「図南丸」(9,866総トン)だけは冷凍船改装の中古船で他の捕鯨母船と比べて小さく、鯨油槽の容量も小さかった。そのため、この図南丸に随伴して鯨油の貯蔵や輸出先であるヨーロッパへの輸送[7]、および捕鯨船団の各船に対する燃料補給用としての大型タンカーが必要とされたので、日本水産は優秀船舶建造助成施設を活用して[5]川崎造船所にタンカーを発注することとなった。これが「厳島丸」である。1937年(昭和12年)12月28日に完成した「厳島丸」は、この時期に建造された大型タンカーの大半を占めていた川崎型油槽船(タンカー)の一隻であったが、鯨油を取り扱い、捕鯨船団への各種物資の補給に従事するという性格上、異質の油類を同時に取り扱えるスチームポンプの他、一番油槽前部と機関室後部に貨物室が設置された[6]

「厳島丸」は完成後ただちに捕鯨船団への必要物資と燃料油を搭載し、1938年(昭和13年)1月15日[9]、先行していた「図南丸」の船団を追って南氷洋に向かった[7]。12月には、日本水産と同じ日産コンツェルン傘下に漁船の売買や賃借を行う共同漁業が設立されたことに伴い、「厳島丸」を含む日本水産の大形船舶は共同漁業に移籍した[1]。その後3年間は捕鯨船団への補給、ヨーロッパへの鯨油輸出、帰路にはパナマからの原油輸入[7]、漁閑期にはアメリカ西海岸からの原油輸入に任じた。1940年(昭和15年)以降は仏印進駐日独伊三国軍事同盟締結の影響で日米関係が徐々に悪化。1941年(昭和16年)度の南氷洋捕鯨は国際情勢の悪化で中止され[10]、アメリカ西海岸からの原油輸送に専念していた「厳島丸」は抑留の危機に晒された。外交交渉の結果、11月に出港出来る事となり、「厳島丸」は11月19日に横浜港に帰港した[6]。その3日後の11月22日、「厳島丸」は海軍に徴傭され、呉鎮守府籍となる[6][11]

徴用船

「厳島丸」は徴傭後間もなくサイパン島に進出し、駆逐艦卯月」などへの補給を行う[12]。その後は横須賀および佐世保といった鎮守府所在地と神戸父島四日市高雄および馬公などの要地との間で重油や人員の輸送任務に服する[12][13]1942年(昭和17年)7月14日から呉海軍工廠で12センチ砲と爆雷投下軌条の設置工事が行われた後[11][13]、横浜、下津などへのパレンバン産原油の還送に従事する[14]1943年(昭和18年)4月1日、共同漁業を含む日本水産は日本海洋漁業統制に集約され、「厳島丸」も移籍した[2]

1943年7月から運航が始まったヒ船団では、「厳島丸」は主要船舶の一隻となる。7月10日六連発のヒ01船団に加入し、昭南(シンガポール)経由でバリクパパンに回航[15][16][17]。帰途は8月5日昭南発のヒ04船団に加入してマニラ、六連を経て8月17日に徳山に帰港した[15][17][18]。続いて8月25日六連発のヒ05船団で南に下って9月12日に昭南着[19]航空ガソリンを搭載して[20]ヒ08船団で9月20日に徳山に到着した[17][20]。この往復の最中の9月1日付で特設運送船(給油)となった[11]。以後、昭和18年中はヒ11船団[注釈 1]、ヒ12船団[注釈 2]、ヒ17船団[注釈 3]、ヒ18船団[注釈 4]、サ19船団[注釈 5]、サ20船団[注釈 6]といった輸送船団に加入して日本と南方を往復。1944年(昭和19年)に入っても引き続きヒ31船団[注釈 7]、ヒ32船団[注釈 8]、ヒ45船団[注釈 9]、ヒ48船団[注釈 10]、ヒ57船団[注釈 11]、ヒ58船団[注釈 12]の各船団に加入して往復を重ねた。南方からの帰還では原油や重油を搭載し、一方日本からは軍需品などを搭載して南に向かっていた。

マリアナ沖海戦

1944年5月9日、「厳島丸」は第一機動艦隊に編入され、5月25日まで佐世保海軍工廠で機銃や爆雷投射機、逆探、重油補給装置の設置工事が行われた[21]。工事終了後、ヒ65船団に加入して5月29日に門司を出港し、6月11日に昭南に到着する[22][23]。当初はバリクパパンへ回航される予定だったが[24]サイパンの戦いが始まった事により第一機動艦隊(小沢治三郎中将・海軍兵学校37期)がマリアナ諸島方面に出動(マリアナ沖海戦)。これを追う形で水雷艇」の護衛の下、6月18日に昭南を出港してネグロス島ギマラス泊地に急行した[25]。しかし、6月22日朝に北緯09度08分 東経120度55分 / 北緯9.133度 東経120.917度 / 9.133; 120.917パラワン島プエルト・プリンセサ南東230キロの地点に差し掛かったところで、アメリカ潜水艦「ナーワル」 (USS Narwhal, SS-167) の雷撃を受けた。「ナーワル」は魚雷を4本発射し、2本が命中して残る2本が命中しなかった事を記録[26]。魚雷は右舷中部三番油槽に1本が命中し[27]、幅13.5メートル、長さ15.7メートルの破口を生じて船体は25度傾いたものの航行に差し支えはなく、その日の夕刻にギマラスに到着した[28]。ギマラスで特務艦「速吸」、駆逐艦「夕凪」、「満潮」、「野分」に対して補給を行った後、マニラへ回航される[28]。マニラでは「速吸」、重巡洋艦妙高」およびマニラ軍需部に対して残った重油を補給し、修理に備えて吃水を浅くしようと試みたが回復せず、マニラでの修理は断念された[28][29]。7月20日から21日にかけてヒ68船団の諸船舶がマニラに入港し、ここで加入船の顔ぶれが一部変わることとなり、「厳島丸」はヒ68船団に加入して日本に戻る事となった[30]。ヒ68船団はマニラ出港後の7月25日にアメリカ潜水艦「フラッシャー」 (USS Flasher, SS-249) 、「クレヴァル」 (USS Crevalle, SS-291) 、「アングラー」 (USS Angler, SS-240) からなるウルフパックの攻撃で損害を受けたが、「厳島丸」には被害はなかった。8月3日、「厳島丸」は佐世保に帰港し、8月10日から9月16日まで佐世保海軍工廠で修理と兵装増設工事を受けた[31][32]。9月20日付で第一機動艦隊から離れ、連合艦隊付属となる[33]

沈没

10月1日、「厳島丸」はヒ77船団に加入し、昭南向けの機雷アンダマン諸島向けの迫撃砲を搭載[34]して門司を出港する[35]。10月12日に昭南に到着後、「厳島丸」は捷号作戦部隊の一隻として第一遊撃部隊(栗田健男中将・海軍兵学校38期)への補給部隊に編入されることとなる[36]。ただちに他のタンカーとともに海防艦千振」、第17号海防艦、第19号海防艦、第27号海防艦および敷設艇由利島」に護衛されて昭南を出撃し、ブルネイ湾に進出[37]。やがてレイテ沖海戦が始まり、「日邦丸」(飯野海運、10,528トン)とともに10月25日にブルネイ湾を出撃してコロン島に向かい、同地にて第一遊撃部隊の艦艇に対する補給を行うこととなった[38][39]。コロン島にはすでに「日栄丸」(日東汽船、10,020トン)が到着し、損傷して下がっていた「妙高」に対し補給を行っていた[40]。ところが、第一遊撃部隊がレイテ湾突入を断念して引き返す途中の10月26日、アメリカ第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)の艦載機が追い討ちをかけるように第一遊撃部隊に対して空襲を行う。これを受け栗田中将は部隊のコロン島寄港を取り止めてブルネイ湾へ急ぐこととなり、南西方面艦隊大川内傳七中将・海兵37期)を介して補給部隊のコロン島進出取り止めを命じる[39]。「厳島丸」と「日邦丸」もスールー海[41]からブルネイ湾へ引き返すこととなった。その途中の10月27日朝4時40分頃[38]バラバク海峡を西航中にアメリカ潜水艦「バーゴール」 (USS Bergall, SS-320) に発見される。「バーゴール」は6本の魚雷を発射し、4つの命中音を聴取して17,000トン級タンカー1隻の撃沈を報じた[42]。魚雷は「厳島丸」と「日邦丸」の双方に命中し、「日邦丸」は瞬時に沈没して「厳島丸」は航行不能となった[38]。「厳島丸」はボルネオ島北端部のマルズ湾に曳航され応急修理を行ったが、連日空襲を受けた末、11月1日に12,000トンの搭載重油とともに[43]沈没した。

12月10日に除籍および解傭[11]

12月19日、放棄された船体をオーストラリア軍が発見している。

戦後の1954年(昭和29年)4月26日、厳島丸は浮揚の後香港に曳航され、搭載していた重油が抜かれた後解体された。

同型船

川崎型油槽船
  • 東亜丸(初代)(飯野海運)
  • 極東丸(飯野海運)
  • 東邦丸(初代)(飯野海運)
  • 建川丸川崎汽船
  • 日本丸(山下汽船)
  • 玄洋丸(浅野物産)
  • 日栄丸(日東汽船)
  • 東栄丸(日東汽船)
  • 国洋丸(国洋汽船)
  • 健洋丸(国洋汽船)
  • 神国丸(神戸桟橋)
  • 久栄丸(日東汽船)

脚注

注釈

  1. ^ 9月25日六連発10月4日昭南着(#駒宮pp.92-93)
  2. ^ 10月10日昭南発10月21日六連着(#駒宮p.386、#厳島丸(3)p.9)
  3. ^ 10月28日門司発、高雄、マニラ経由11月11日昭南着(#駒宮p.386、#厳島丸(3)p.10)
  4. ^ 11月15日昭南発11月28日六連着(#駒宮p.386、#厳島丸(3)pp.10-11)
  5. ^ 12月5日門司発、高雄経由12月17日昭南着(#厳島丸(4)pp.41-42、#一護1812p.24)
  6. ^ 12月21日昭南発、高雄経由昭和19年1月1日六連着(#一護1812p.24、#南海丸p.40)
  7. ^ 1月11日門司発1月20日昭南着(#駒宮pp.125-126、#厳島丸(5)p.1)
  8. ^ 1月25日昭南発2月4日門司着(#駒宮p.132、#厳島丸(5)p.2)
  9. ^ 2月16日門司発2月27日昭南着(#駒宮p.141)
  10. ^ 3月11日昭南発3月25日門司着(#駒宮pp.149-150)
  11. ^ 4月3日門司発4月16日昭南着(#駒宮pp.157-158)
  12. ^ 4月21日昭南発5月3日門司着(#駒宮p.389、#厳島丸(5)pp.44-45)

出典

参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08050073000『昭和十四年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一』、47頁。 
    • Ref.C08050019400『大東亜戦争徴傭船厳島丸行動概見表』、12頁。 
    • Ref.C08050023200『大東亜戦争徴傭船厳島丸行動概見表』、6-9頁。 
    • Ref.C08050029500『大東亜戦争徴傭船行動概見表甲』、6-11頁。 
    • Ref.C08030139700『昭和十八年七月一日同七月三十一日 (第一海上護衛隊)戦時日誌』、31-61頁。 
    • Ref.C08030139800『昭和十八年八月一日同八月三十一日 (第一海上護衛隊)戦時日誌』、1-20頁。 
    • Ref.C08030139800『昭和十八年九月一日同九月三十日 (第一海上護衛隊)戦時日誌』、21-46頁。 
    • Ref.C08030140200『自昭和十八年十二月一日至昭和十九年二月二十九日 第一海上護衛隊戦時日誌』。 
    • Ref.C08030670800『自昭和十九年一月一日至昭和十九年一月三十一日 南海丸戦時日誌』、38-57頁。 
    • Ref.C08030680900『(厳島丸)行動作業報告』、25-57頁。 
    • Ref.C08030681000『(厳島丸)行動作業報告』。 
    • Ref.C08030681100『(厳島丸)行動作業報告』、1-10頁。 
    • Ref.C08030681100『昭和十九年八月二十五日 敵潜ニ依ル被襲撃報告』、11-17頁。 
    • Ref.C08030681100『自昭和十九年五月九日至昭和十九年五月三十一日 厳島丸戦時日誌』、18-30頁。 
    • Ref.C08030681100『自昭和十九年六月一日至昭和十九年六月三十日 厳島丸戦時日誌』、31-43頁。 
    • Ref.C08030681100『自昭和十九年六月二十二日 厳島丸戦闘詳報第一号』、44-50頁。 
    • Ref.C08030681200『自昭和十九年七月一日至昭和十九年七月三十一日 厳島丸戦時日誌』、1-15頁。 
    • Ref.C08030681200『自昭和十九年七月一日 (厳島丸)戦闘詳報第二号』、16-22頁。 
    • Ref.C08030681200『自昭和十九年八月一日至昭和十九年八月三十一日 厳島丸戦時日誌』、23-37頁。 
    • Ref.C08030681200『自昭和十九年九月一日至昭和十九年九月三十日 厳島丸戦時日誌』、38-54頁。 
    • Ref.C08030685700『自昭和十九年十月一日至昭和十九年十月三十一日 特設運送船(給油船)日栄丸戦時日誌』。 
  • (Issuu) SS-167, USS NARWHAL, Part 1. Historic Naval Ships Association. https://issuu.com/hnsa/docs/ss-167_narwhal_part1 
  • (Issuu) SS-167, USS NARWHAL, Part 2. Historic Naval Ships Association. https://issuu.com/hnsa/docs/ss-167_narwhal_part2 
  • (Issuu) SS-320, USS BERGALL. Historic Naval Ships Association. https://issuu.com/hnsa/docs/ss-320_bergall 
  • 財団法人海上労働協会(編)『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6 
  • 『船の科学』第33巻第8号、船舶技術協会、1980年8月。 
  • 海防艦顕彰会(編)『海防艦戦記』海防艦顕彰会/原書房、1982年。 
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年。 
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。 ISBN 4-87970-047-9 
  • 松井邦夫『日本・油槽船列伝』成山堂書店、1995年。 ISBN 4-425-31271-6 
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年。 
  • 日本水産百年史デジタル版』ニッスイ、2014年3月。 

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