南部氏
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歴代当主
※ 以下は三戸南部氏(盛岡南部氏)の当主である。
系譜
※ 凡例 数字は『南部系譜』による南部宗家の当主、太線は実子、細線は養子。※は同一人物。
(ただし、第26代当主の南部信直以前の系譜は諸説あって一定しない。ここでは一例を示す)
南部光行 ┏━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━┳━━━┳━━━┓ 行朝 実光2 実長 朝清 宗清 行連 (一戸氏)[三戸南部氏] (波木井南部氏) (七戸氏)(四戸氏)(九戸氏) ┃ ┣━━━┓ ┃ ┃ ┃ 時実3 実継 長義 ┃ ┃ (波木井氏) ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓ ┃ 政光4 宗経5 政行 実政 宗実 義元 長継 ┃ (伊勢南部氏) (甲斐南部氏) ┣━━━━━━━┓ ┏━━━╋━━━┓ ┣━━┓ ┃ ┃ ┏━━━┳━━━┓ 時長 師行 政長 義行 ┃ 宗継 女(南部師行妻) ┃ 宗行6 祐行7 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ [根城南部氏] ┃ ┃ ┃ (伊勢南部氏?) ┃ ┃ ┃ ┃ ━━━━━━━━━━━━━━━━━ ┃ ┃ ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓ ┣━━━┓ 信政 義重 茂時10 信長11 仲行 茂行 信行 政連8 祐政9 ┣━━━┓ ┃ 信光 政光 政行12 (八戸氏)(七戸氏) ┃ 守行13 ┏━━━┳━━━━━━━━━━━╋━━━┓ 義政14 政盛15 助政16 行長 (東氏) ┣━━━┓ ┃ 光政17 時政18 信時20 ┃ ┏━━━┫ 通継19 信義21 政康22 ┃ ┣━━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━━┓ 致愛 安信23 高信 長義 信房 秀範 ┃ ┃ ┏━━━┫ (南氏)(石亀氏)(毛馬内氏) 信愛 晴政24 信直26 政信 (北氏) ┃ ┃ (石川氏) 晴継25 利直27 (盛岡藩) ┏━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 重直28 重信29 直房 ┃ (八戸藩) ┣━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━━┓ ┃ 行信30 政信 勝信 ※通信 直政 ┏━━━╋━━━┓ | (直政養子) | 実信 信恩31 利幹32 信弥 ※通信 ┃ ┣━━━┓ | ┃ 利視33 利雄34 信起 ※信伝 広信 ┏━━━┳━━━┳━━━┳━━━━━━━┫ ┃ ┃ ┃ ※信伝 信駕 信周 信居 利正35 利謹 信喜 信興 (信弥養子) ┃ ┣━━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ 信敞 信浄 信丞 利敬36 利済38 信鄰(七戸藩) 信依 ┃ ┃ ┃ ┏━━━┫ ┃ ┏━━┫ 信也 利用37b 利用37a 利義39 利剛40 信誉 信房 信真 ┃ ┣━━━┳━━━┳━━━┓ | 信民 利恭41 信方 麻子 利克 信順 (信誉養子) ┏━━━┫ | ┃ ┃ 利祥42 利淳43 信孝 信克 栄信 | 利英44 ┃ 利昭45 | 利文46
南部氏家臣団
戦国時代
- ^ 自称は藤原氏であるが、南部氏族である説が有力である。詳細は津軽為信を参照。
- ^ 始祖である武田信廣は若狭武田氏又は南部氏の流れを汲むとされる。
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)他『南部氏』 - コトバンク
- ^ a b 『青森県史』資料編 中世1
- ^ 糠部五郡とは糠部郡、岩手郡、閉伊郡、鹿角郡、津軽郡 (陸奥国)のことだとされているが、これらは後の16世紀半ば南部氏領の最大版図とほぼ同域であり、豊臣政権から領地安堵してもらうことと津軽地方を押領している大浦(津軽)為信が惣無事令に違反する逆徒と訴えていることについて、歴史的にも正当性があるように南部家伝を捏造したと考えられている。
- ^ 『岩手県史』第2巻 中世篇 上
- ^ 南北朝武将列伝 南朝編 2021, p. 13-14.
- ^ 南部藩 参考諸家系図 第3巻(国書刊行会) 解題 南部重直の家臣大政策 加藤章 P.575
- ^ 南部孫次郎を南部系譜では茂時に、嫡家系譜では7代当主の南部信長にしている。
- ^ <太平記>では南部太郎とする場合や、南部二郎、又は南部三郎などと定かでない。
- ^ この後、新田義貞らの反足利勢力の一翼として、後醍醐天皇の比叡山への御幸に従いながら足利方に捕らえられ禁殺されたとされているが、南部氏系譜によって記載する系譜と不記載がある。
- ^ 『盛岡南部氏物語』の嫡家系譜では、義行をして恵性の北条軍として分倍河原の戦いに出陣して戦い、敗れた恵性を奥州に案内した南部太郎としている。
- ^ 『陸奥南部一族』など
- ^ 『太平記』 第14巻より
- ^ 『太平記』第14巻より
- ^ 同年の足利尊氏の供奉の列に波木井南部氏の波木井長氏の子と見える波木井政氏の名もある。
- ^ この軍勢に南部信政が従軍した『八戸根城と南部家文書』より。
- ^ 『太平記』15巻より
- ^ この説は『南部史要』も採用している。
- ^ 『八戸根城と南部家文書』1P166より
- ^ 『八戸根城と南部家文書』P167より
- ^ 『八戸根城と南部家文書』P169より
- ^ 『太平記』第19巻
- ^ 『同じく南部史談会誌』などによれば、この派遣軍の中には南部信長兄弟が従い奥州に還ったとしている。
- ^ 八戸根城と南部家文書 p.253
- ^ a b 八戸根城と南部家文書 p.256
- ^ 新潮社版<太平記>では高階弾正惟宗の息としている。
- ^ これは足利氏と結んだ甲斐南部氏と区別するための太平記作者の配慮か?
- ^ 新潮社版<太平記>では南部常陸守としているが、太平記注釈書の<参考太平記>では南部常陸介とする。
- ^ 河西氏の先祖南部元時や、奥氏の南部清政、仙洞田氏の南部重清
- ^ 南部実政以降の伊勢南部氏系図が載る系図纂要の形式から家の系図を名のある系図に結びつける手法が採られているようなので、実政以降南部頼村までは参考系図程度に見るべきだろう。むしろ実政より波木井実長の跡としたほうが合っているし、今後の伊勢南部氏の研究対象となるだろう。
- ^ <太平記>の巻.26の記述の中で、同一人物とみられる南部遠江守・同次郎左衛門尉をして、南遠江守・同次郎左衛門尉とする記述がある。
- ^ …京都よりの信長書状『八戸根城と南部家文書』。
- ^ 平山(2011)、p.79
- ^ a b c d e 丸島(2015)、p.545
- ^ 下国氏(檜山安東氏)の勢力が津軽から駆逐された事により、蠣崎氏(松前氏)の分離独立、上国氏(湊安東氏)を相続・拠点移動(檜山から湊城へ)などによる安東両家の統合と秋田制圧(蝦夷の支配を放棄、秋田氏に改姓)が進む。
- ^ 天正20年(1500年)7月27日付豊臣秀吉朱印状南部信直宛(盛岡市中央公民館蔵) なお糠部郡は寛永11年(1634年)に北、三戸、二戸、九戸の4ヶ郡に分割された
- ^ 時代は下るが『各藩高並租税調帳』『藩制一覧』における弘前藩実高は287,733石
- ^ これによって、伊達政宗は上杉の白石城を奪取するなど功績を挙げたにもかかわらず、所謂「百万石のお墨付き」を反古にされた。
- ^ 千葉優 2003, pp. 59.
- ^ 千葉優 2003, pp. 64–65.
- ^ (盛岡藩初代藩主)(安信弟石川高信長男)
- ^ (吉次郎が事故死したため、表向きは同一人物としてすり替わった)
- ^ (公爵一条実輝の三男で婿養子、妻は利淳の長女の瑞子)
- ^ (利昭の長兄利久の長男)
- ^ (南部信直の実父)
- ^ (根城南部氏第18代当主)
- ^ (八戸直栄の娘、直政の妻、女大名)
固有名詞の分類
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