仙台城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/08 22:04 UTC 版)
歴史
仙台城は近世に伊達家が居城とした城郭である。仙台城ではないが、近世以前にも青葉山には城があったともいわれ、岩切城合戦を記した文書にある「虚空蔵城」は現在の仙台城の場所にあった山城という説もある[2]。
近世
伊達政宗は、関ヶ原の戦いの後、徳川家康の許しを得て千代に居城を移すことにした。1600年(慶長5年)12月、政宗は青葉山に登って縄張りを開始[2]。地名を仙臺(新字体:仙台)と改めた。
仙台が新しい本拠地に選ばれた理由として、
- 仙台付近は陸路は東海道の延長上にある「海道」とかつての東山道に由来する「山道」が合流し、水路は名取川・広瀬川を経由して閖上などの港から太平洋に通じるなど交通の要所であったこと。
- 岩出山城を居城に定めたのは豊臣政権の伊達氏を封じ込める政策によって一方的に決められた城であったこと。
- 関ヶ原の戦いの際に徳川家康と約束されたと言われている「百万石の御墨付」が実現されていた場合(置賜郡・伊達郡など7郡が政宗に与えられた場合)、岩出山城は新しい領国の中で北に偏り過ぎていたこと。
が、あったとみられている。新城は関ヶ原の合戦が迫る緊迫化した状況の中で計画が立てられ、千代城(仙台城)以外にも仙台に近い北目城を改築して本拠地にする構想も検討されていた(実際に慶長出羽合戦では北目城に陣が置かれている)。しかし、北目城を本拠地として改築するには時間がかかると判断され、最終的には仙台を新しい本拠地とすることになった[3]。
政宗が築いた仙台城は、本丸と西の丸からなる山城であり、天守台はあるが天守は持たなかった。これらの点で時代の流行に背を向けたが、結果として仙台城は、ビスカイノをして「日本の最も勝れ、又最も堅固なるものの一つ」と言わしめるほど、同時代に比類ない堅城となった。
しかし、山上にある本丸は街への往来が不便であった。そのため、伊達忠宗は1638年(寛永15年)に二の丸の造営に着手し、翌年には居所を二の丸に移した[2]。二の丸は本丸と同じく広瀬川の内側にあるが、土地は平坦な場所である。伊達家の当主はここに居住し、政務もここで執られた。時期は不明だが、これと前後して大手門脇、青葉山の麓に三の丸が作られた。これ以降、本丸が使われることは少なくなり二の丸が仙台城の中枢になった。
江戸時代を通じて、仙台城は火災や地震により何度か建物や石垣の一部を失い、その都度再建された。
戊辰戦争でも仙台が戦場になることはなかったため、仙台城は創建以来一度も攻撃を受けずに要塞としての役目を終えた。
近代
1873年(明治6年)の「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」で仙台城は「存城」とされる[2]。
これに先立つ1869年(明治2年)の版籍奉還で仙台城には勤政庁設置[2]。1871年(明治4年)には東北鎮台が仙台城を本営にして駐屯。このとき本丸が破壊され、石材と木材が兵舎建設に流用。後に東北鎮台は仙台鎮台と改称。さらに鎮台制が師団制にかわると、第二師団設置。
- 1876年(明治9年)
- 明治天皇が行幸[2]
- 1882年(明治15年)
- 二の丸で火災が発生[2]。大手門、脇櫓、虎ノ門を除くほとんどの建物が焼失。
- 1904年(明治37年)
- 本丸の跡地に招魂社建立[2]。現在の宮城縣護國神社。
- 1920年(大正9年)
- 大手門から本丸への途中にある中門(寅門)を取り壊す[2]。門は現知事公館の正門に移築。
- 1925年(大正14年)
- 仙台市が青葉山自然公園を開園[2]
- 1931年(昭和6年)
- 1935年(昭和10年)
- 1943年(昭和18年)
- 1961年(昭和36年)
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月10日未明、アメリカ軍による仙台空襲の際、米軍のB29により投下された焼夷弾により、大手門、脇櫓(隅櫓)(当時国宝)、衛兵所に使用中の二の丸表舞台楽屋などが全て焼失し、護国神社も焼失した。これにより、江戸時代から伝わる建物は三の丸の巽門(たつみもん)のみとなった(戦後、巽門跡の発掘時に礎石附近から焼けた土が見つかっており、大手門と同様、この日の戦災で焼失したという説もある)。
現代
戦後、二の丸跡地にアメリカ陸軍が進駐(キャンプセンダイ)[2]。トラックの通行を可能にするため、三の丸巽門が破却されたことにより(※戦災で消失説もあり)仙台城跡にあった江戸期の建築遺構はすべて失なわれた。アメリカ軍は1957年(昭和32年)にキャンプセンダイを返還[2]。
返還された後の二の丸跡地には、東北大学が入り、東北大学川内キャンパスとなった。川内キャンパス(川内北キャンパス、川内南キャンパス)のうち、南部の文系四学部、付属図書館、付属植物園のある場所が二の丸にあたる。
- 1950年(昭和25年)
- 1954年(昭和29年)
- 戦争中に撤去された政宗像はコンクリート平服立像として再建。
- 1960年(昭和35年)
- 1962年(昭和37年)
- 1978年(昭和52年)
- 2003年(平成15年)
- 2005年(平成17年)
- 2006年(平成18年)
- 2008年(平成20年)
- 仙台・宮城デスティネーションキャンペーンを契機に、土井晩翠銅像前における「荒城の月」自動演奏を一日3回から10回(9:00-18:00まで1時間毎)に増加。仙台城本丸の伊達政宗騎馬像および石垣を日没から午後11時まで通年でライトアップ実施。これに合わせて、本丸にある有料駐車場(昼間普通車400円/時間)を18:00~翌8:00は夜間無料開放[6]。
- 2011年(平成23年)
- 2022年(令和4年)
- ^ a b 仙台城跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w “仙台城跡関連年表”. 仙台市. 2020年12月2日閲覧。
- ^ 小林清治「仙台築城の歴史的意義」『伊達政宗の研究』(吉川弘文館、2008年) ISBN 978-4-642-02875-2 P202-213
- ^ “伊達政宗の胸像、「仙臺緑彩館」へ引っ越し 26日にお披露目”. 河北新報. 2023年4月14日閲覧。
- ^ 夜の杜の都味わって(河北新報)
- ^ 仙台城跡 夜の観光魅力アップ企画をDC以降も継続します(仙台観光コンベンション協会)
- ^ http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/20110319t13055.htm
- ^ a b INC, SANKEI DIGITAL (2020年5月10日). “【千田嘉博のお城探偵】伊達政宗の仙台城 強き独眼竜の志(2/2ページ)”. 産経ニュース. 2022年9月24日閲覧。
- ^ 西ヶ谷恭弘著『ポケット図鑑 日本の城』主婦の友社、1995年
- ^ a b 仙台城・脇櫓も建て替えへ 大手門と一体で復元
- ^ a b “仙台城”大手門復元 仙台市は「脇櫓」を解体し一体整備 「脇櫓」屋根が史実とは異なる形状と判明
- ^ “光明山孝勝寺|宮城県仙台市”. 光明山孝勝寺|宮城県仙台市. 2021年3月11日閲覧。
- ^ “旧仙台城板倉 - 仙台市の指定・登録文化財”. www.sendai-c.ed.jp. 2021年3月11日閲覧。
- ^ a b “市道仙台城跡線の廃止を検討へ 大手門復元計画”. 河北新報 (河北新報). (2020年12月2日) 2020年12月2日閲覧。
固有名詞の分類
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