一条富子 一条富子の概要

一条富子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 05:46 UTC 版)

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一条 富子
第118代天皇母
皇太后 明和8年5月9日(1771年
恭礼門院
院号宣下 明和8年7月9日(1771年

誕生 寛保3年2月4日1743年2月27日
崩御 寛政7年11月30日1796年1月9日
氏族 藤原氏一条家
父親 一条兼香
母親 家女房
配偶者 桃園天皇
入内 宝暦5年11月(1755年
子女 後桃園天皇
伏見宮貞行親王
女御宣下 宝暦5年11月(1755年
准后 宝暦9年3月(1759年)
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概要

父は関白一条兼香。母は栄秀院(家女房)。准母は飛鳥井雅豊(権大納言)の娘。一条家の本姓は藤原氏なので藤原富子(ふじわら の とみこ)と記されることもある。

宝暦5年10月(1755年)に従三位に叙され、同年11月に入内して桃園天皇の女御となる。宝暦9年3月(1759年)には准三宮の宣下を受ける。この年の12月7日に桃園天皇が崩御したが、桃園天皇との間に儲けた第一皇子英仁親王はまだ幼かったので、皇位は桃園天皇の姉(後桜町天皇)に一時的に譲ることとなった。明和7年(1770年)に英仁親王が成長すると後桜町天皇から譲位を受けて即位、後桃園天皇となった。国母となった富子は明和8年5月9日(1771年)に皇太后に冊立された。同年院号が宣下され、恭礼門院の院号をうける。ただちに落飾して「新女院」、のち「女院」と称した。

その後、 安永8年10月29日(1779年12月6日)に後桃園天皇が崩御、続いて天明3年10月12日(1783年11月6日)にその妃近衛維子(盛化門院)が崩御すると、二人の一人娘である孫の欣子内親王を手元で養育した。欣子内親王が光格天皇の元へ入内、中宮に冊立されるのを見届けた後、寛政7年(1795年)に崩御。享年53。

女院御所

京都御所南西にあった恭礼門院の女院御所は、のちに賀陽宮家の邸宅として利用されたが、現在は京都御苑内の賀陽宮跡地から相国寺に移築されている。




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