バーブラ・ストライサンド 来歴

バーブラ・ストライサンド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/24 23:00 UTC 版)

来歴

1973年

少女時代

米国ニューヨーク市のウィリアムズバーグでユダヤ系のロシア人の家族のもとに生まれ、バーバラ・ジョアン・ストライサンド(Barbara Joan Streisand)と名づけられた彼女は、生後まもなくしてブルックリンへと引っ越す。グラマースクールで文法学の教師をしていた父親のエマニュエルは、彼女が生後わずか15ヶ月のときに亡くなり[1]、継父のルイス・カインド(中古車セールスマン。1949年に母アイダと結婚)と彼女は不穏な関係であった(精神的な虐待)。母親のダイアナ・アイダ・ローゼンはバーブラが魅力的ではないと感じ、娘にショービジネスを勧めることはなかった。この事が、バーブラが長年、エンターテイメント界での数々の成功にもかかわらず自分の容姿にコンプレックスを持ち続けた理由ではないかとされている。

1959年、エラスムス・ホール高校を4番目の成績で卒業。高校ではニール・ダイアモンドと共に合唱部に所属していた。大学へは進学していない。

ストライサンドは、「育ったときはそこ(ブルックリン)は嫌いだったけれど、今はわたしのルーツから力をもらっていると感じる」と述べている(2006年10月17日のトロントコンサートで)。

初期のエンターテイメント活動

10代の頃にナイトクラブで歌手としてデビュー。しかし本来は女優志望で、数々のオフ・オフ・ブロードウェイ演劇に出演していた。当時野心的だった女優ジョーン・リバーズと競演したこともある。ボーイフレンドだったバリー・デネン英語版クラブで働くように支援したため、1960年マンハッタンにあるゲイバーで演じたことにより、歌手として成功をおさめた。それと同時期に、ユニークさを出したいと考えたストライサンドは自身の名前をバーブラ(Barbra)に縮めている。

1962年にはミュージカル『あなたには卸値で』でブロードウェイに出演し、その後コロムビア・レコードと契約を結んだ。彼女のデビューアルバム『ザ・バーブラ・ストライサンド・アルバム』は1963年に2つのグラミー賞を受賞した。その後、彼女の人気は低迷することなく、デビュー作から3作目までが同時にビルボードのポップ・アルバム部門のトップテンに入った。当時はロックンロールやビートルズがヒットチャートの大半を占めていたことから、彼女の功績は異例の快挙だと見なされた。

ファニー・ブライスの生涯を題材にした、ジュール・スタインとボブ・メリルの音楽による1964年の『ファニー・ガール』は、『あなたには卸値で』におけるストライサンドのパフォーマンスを見たスタインが彼女のために制作したブロードウェイ・ミュージカルである。しかしショーのプロデューサー、レイ・スタークの妻だったブライスの娘は、ストライサンドをキャスティングするのを強く反対し、彼女よりキャロル・バーネットのほうを好んだという。

テレビ出演も多く果たしたストライサンドは、米国のCBSチャンネルで多くのスペシャル番組に出演。特に最初のスペシャル番組であった1965年の『マイ・ネーム・イズ・バーブラ』は多くのファン評論家によって賞賛された。

ストライサンドは1967年以降舞台には出演せず、1970年代から1990年代前半にかけてはコンサート活動からも遠ざかった。これはユダヤ系アメリカ人として政治的な姿勢を明確に表明していた彼女への脅迫行為が多発していたためで、以降彼女はレコードと映画を活動の中心とした。

歌手としてのキャリア

バーブラ・ストライサンドは60作以上のアルバムを録音しているが、その殆どがコロムビア・レコード・レーベルから発売されたものである。1960年代に発表された初期の作品は、アイロニックで見事な「幸せの日は再び」をはじめとする劇場やナイトクラブで歌われるスタンダード曲を主とした古典的な表現に徹した作品だと考えられている。

1969年からは作曲家としても活動をはじめ、ロックへの路線変更を試みて試行錯誤する。最終的にリチャード・ペリーがプロデュースした1971年の『ストーニー・エンド』の成功によって、ポップやバラード志向に定着した。ローラ・ニーロが作曲したこのアルバムの表題作は大きなヒット曲になった。1970年代のあいだ、ストライサンドは「追憶」「スター誕生/愛のテーマ」「ノー・モア・ティアーズ」や「ウーマン・イン・ラヴ」など、主に彼女の映画のサウンドトラックに使用された楽曲でチャートの首位に輝き、ポップチャート上でも際立った存在だった。

1970年代の終わりには、米国で最も成功した女性歌手として認識された。彼女のアルバムのセールスは凄まじく、当時彼女より多くのアルバムを売り上げていたのはエルヴィス・プレスリービートルズだけであった。[2] 1982年に、音楽評論家のスティーヴン・ホールデンは彼女を「フランク・シナトラ以来最も影響力のある米国ポップ歌手」と評している。

1980年ビー・ジーズバリー・ギブによるプロデュース作「ギルティ」を発売、彼女自身最大のヒットアルバムとなった。グラミー賞も受賞した。

1985年のアルバム『追憶のブロードウェイ』で、ストライサンドは彼女の原点であるミュージカル的な作風に回帰する。このアルバムはビルボードの首位を3週連続キープして3xプラチナとして認証され、思いがけない成功をもたらした。レコーディングのためにスティーヴン・ソンドハイムによって特別に作り直されたミュージカル・ナンバーを収めたこのアルバムは高い評価を受け、グラミー賞で「アルバム・オブ・ザ・イヤー」にノミネートされた。ストライサンド自身も最優秀女性歌手部門において、彼女にとって8度目の同賞を受賞している。

1991年には、『ジャスト・フォー・ザ・レコード』と題された4枚組のCDボックスセットが発売された。このアルバムにはライブ音源やヒット曲、それに初期から1991年までに録音されたレア音源など、70曲以上が収録されている。

1992年ごろは、音楽的成功はストライサンドにとって関心ごとではなかった。ビル・クリントンとの関係から、ニューヨーク・タイムズは彼女を再び「最も有力なエンターテイナー」であると宣言した。ストライサンドが行った資金集めのコンサートは、クリントンをスポットライトに送り込む手助けをした。クリントンがアメリカ合衆国の大統領に就任した際には、ストライサンドが彼を紹介している。[3]

しかしながら、政治活動のためにストライサンドの音楽的キャリアは中断していた。そこで、ツアーが提案され、彼女はそのために2年もの歳月にわたって話し合いを行った。そして、それから1年後の1993年にショー・チューンを集めたアルバム『バック・トゥ・ブロードウェイ』で再び全米チャートの1位を記録すると、同年の9月には27年ぶりのコンサート・ツアーを行うと発表した。この限られたツアーへのチケットは1時間未満で売り切れた。また、主要な雑誌の表紙も飾った彼女のツアーを、『タイム』誌は「世紀の音楽イベント」になると予測した。ツアーは全てのメディアにおいて、史上最も大規模な交渉を生む商品となった。チケットの値段は50ドルから1500ドルへと高騰し、ストライサンドを史上最も高価なパフォーマーにした。ザ・コンサートはその年アメリカ国内で最も高い収益を得たコンサートになり、2つのエミー賞ピーボディ賞を受賞した。HBOでオンエアされた録画放送は、HBOのこれまでの30年以上の歴史の中で最も高視聴率を記録したコンサート特番である。

1999年の大晦日、彼女はコンサートのステージに復帰する。“Timeless”と題された。そして、これまでのラスベガスの歴史における単独での歌手のコンサートとしては、最大級の収益をあげる記録をなしとげた。世紀末の時点で彼女は、デビュー以来各年代で最低2枚1位を記録したアルバムがある、アメリカ最高の女性シンガーであった。ラスベガスでのコンサートのあと、オーストラリアロサンゼルスそして、故郷であるニューヨークなどで公演を行うと、彼女は2000年にコンサート活動を停止する。

彼女の近年のアルバムには2001年の『クリスマス・メモリーズ』や、大規模なオーケストラの演奏をバックに有名映画の主題歌を歌ったものを集めた2003年の『ムーヴィー・アルバム』などがある。最新作はバリー・ギブとの共演による『ギルティ』の続編『ギルティ・プレジャーズ』(イギリスでは『ギルティ・トゥー』として発売された)で、2005年に世界発売された。

2006年2月、マリブの自宅でトニー・ベネットと共に「スマイル」を収録。10月4日にフィラデルフィアのワチョビアセンターで始まった6年ぶりのコンサート・ツアーは「ストライサンド:ザ・ツアー」とのみ呼ばれている。スペシャルゲストのイル・ディーヴォがオープニングを勤めた。

2006年10月9日、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンでコンサート。ジョージ・W・ブッシュ大統領を揶揄するスキットを披露した。スキットの後で野次を飛ばし続ける一人の観客に対し、ストライサンドは「黙れ」と怒鳴りつけ、後に陳謝したが、「秩序をかき乱すのも芸術家の役割」と付け加えた。

2006年10月30日、同じスキットで、一人のファンがストライサンドにカップを投げつけた。 これに対し、マネージャーのマーティン・エーリッヒマンは「ここは自由の国であり自分の意見を述べる権利がある」と回答した。

2007年、13年ぶりのヨーロッパ・ツアーをロンドンパリなどで行う。

2009年10月、4年ぶりのアルバム"Love Is The Answer"を発売。(同日発売のマライア・キャリーのアルバムを抑え)、Billboard 200チャートで初登場1位。

2014年9月、デュエット・アルバム『パートナーズ』を発表。Billboard 200チャートで初登場を首位で飾り、自身が持つ女性アーティスト最多記録を10作に更新。さらに、1960年代1970年代1980年代1990年代2000年代2010年代の6つの年代で首位を獲得する前人未到の偉業を達成した。

多くのアーティストと同様、ストライサンドは自分の作品について議論することを好まないことで知られる。そして収録が終わるや否や、それは「終わったもの」として忘れてしまうことが多いのだという。彼女は、多くの彼女の歌は題名すら思い出せないと述べている。

一度も来日公演が行われていない大物アーティストの一人である。1977年3月に映画『スター誕生』のプロモーションで来日したが、公演は行わなかった。この時「なぜ来日公演を行わないのか?」という記者の質問に対し、「日本で歌う機会が無いのです。もしあれば歌いたいのだが・・・」と答えている。

映画でのキャリア

彼女の最初の映画は、ブロードウェイでの最初のヒット作『ファニー・ガール』(1968年)の翻案だったが、芸術的、商業的成功を収め、1968年のアカデミー賞最優秀女優賞を、キャサリン・ヘプバーンと共に受賞する。これはオスカー初の引き分けとなった。これに続く2作の映画、ジェリー・ハーマンの『ハロー・ドーリー!』(1969年)とアラン・ジェイ・ラーナーとバートン・レーンの『晴れた日に永遠が見える』(1970年)もミュージカルの翻案であった。4番目の映画はブロードウェイ演劇『フクロウと子猫ちゃん』(1970年)を下敷きにしている。

彼女はオリジナルのスクリューボールコメディーにも出演している。『おかしなおかしな大追跡』(1972年)ではライアン・オニールと共演、『またまたおかしな大追跡』(1974年)ではマイケル・サラザンとそして『追憶』ではロバート・レッドフォードと共演している。彼女の2番目のアカデミー賞は、『スター誕生』(1976年)の歌「スター誕生の愛のテーマ」の作曲家として、オリジナル歌曲賞を獲得している。この賞を女性が獲得したのはこれが初めてである。1969年、俳優が資産を確保し自分で映画プロジェクトを興せるようにするため、ポール・ニューマンシドニー・ポワチエと共に、ファーストアーティストプロダクションを興した。彼女のファーストアーティストとしての最初の出演は、『砂の塔・人妻マーガレットの場合』(1972年)となった。

1970年の『フクロウと子猫ちゃん』で彼女のトップレスのシーンがあったが、彼女はこれを後悔して全てのフィルムを買い取り、問題のシーンを削除した。ハイソサエティ誌が彼女の胸の写真のオリジナルを出版したとき、彼女は同社を告訴した(後に自身の監督作『サウス・キャロライナ』でも撮影中のアクシデントで胸が露になってしまったが、本人はそのシーンを気に入り、本編で使うことにした。しかし、関係者による試写会での反応があまりにも大きすぎたため、ストーリーの流れを止めてしまうと思い、最終的にはカットされた)。

ストライサンドは自分自身の映画を数多く製作し、1972年にバーウッドフィルムを興した。『愛のイエントル』(1983年)では、プロデューサ、監督、脚本、主演を兼任し、『サウス・キャロライナ/愛と追憶の彼方』(1991年)までこれが続く。

『愛のイエントル』はその新人離れした完成度がスティーヴン・スピルバーグフェデリコ・フェリーニらに絶賛される一方で、作中のフェミニズム思想の強さが批判、反発を呼ぶ作品となった。ゴールデングローブ賞では6部門にノミネートし、作品賞と監督賞を受賞するが、アカデミー賞では主要なカテゴリーである最優秀作品賞、最優秀女優賞、最優秀監督賞のいずれにもノミネートすらされず、議論となった。『サウス・キャロライナ』は、最優秀映像賞を含むより多くの候補になったが、例によって最優秀監督賞の候補には漏れた。

2004年、8年間の空白を破り、コメディー『ミート・ザ・ペアレンツ2』で映画に復帰した。ここでダスティン・ホフマンベン・スティラーおよびロバート・デニーロと競演している。


  1. ^ Barbra Streisand Archives | Childhood, Brooklyn, 1942, Diana Kind”. Barbra-archives.com. 2013年12月4日閲覧。
  2. ^ Recording Industry Association of America: Newsletter 1999
  3. ^ [1]
  4. ^ スピルバーグ監督に文民最高位の「大統領自由勲章」”. 日刊スポーツ (2015年11月17日). 2015年11月17日閲覧。
  5. ^ Tierney, Ben (1970年1月30日). “Pierre Shy But Barbra Loved It”. Calgary Herald. https://news.google.com/newspapers?id=QGtkAAAAIBAJ&sjid=-HwNAAAAIBAJ&pg=5746%2C2992239 2013年2月1日閲覧. "Miss Streisand arrived in Ottawa Wednesday night...and attended a performance of the Royal Winnipeg Ballet Company, in capital's [sic] posh National Arts Centre, with the prime minister. The outing, their third together, was enough, said a local newspaper, to ‘set Ottawa buzzing with romantic speculation.’" 
  6. ^ Klassen, Nicholas (2012年9月27日). “Longing for a Suave Prime Minister”. Ballast. 2012年9月27日閲覧。
  7. ^ “Barbra—Act 2”. Ottawa Citizen. (1970年6月8日). https://news.google.com/newspapers?id=bcgyAAAAIBAJ&sjid=3OwFAAAAIBAJ&pg=5817,2172460&dq=trudeau+streisand 2013年2月1日閲覧。 
  8. ^ Agassi, Andre (2009), Open: An Autobiography, Vintage, http://www.amazon.com/Open-An-Autobiography-Andre-Agassi/dp/0307388409 2014年7月27日閲覧。 
  9. ^ Schindehette, Susan (1998年7月20日). “The Way They Were”. People. 2012年9月13日閲覧。
  10. ^ Streisand v. Adelman, et al., in California Superior Court; Case SC077257
  11. ^ Adelman, Kenneth (2007年5月13日). “Barbra Streisand Sues to Suppress Free Speech Protection for Widely Acclaimed Website”. California Coastal Records Project. 2008年4月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年4月8日閲覧。
  12. ^ "Streisand's Lawsuit to Silence Coastal Website Dismissed" (Press release). Mindfully.org. 3 December 2003. 2008年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年4月8日閲覧 {{cite press release2}}: 不明な引数|deadurl=は無視されます。(もしかして:|url-status=) (説明); 不明な引数|deadurldate=は無視されます。 (説明)






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