bjへの転籍と歩み寄り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 14:49 UTC 版)
「プロリーグ構想 (バスケットボール)」の記事における「bjへの転籍と歩み寄り」の解説
2007年に新JBL初年度のシーズン開幕を迎えるが、開幕前にオーエスジーフェニックス東三河のbjリーグ転籍を表明。JBLが完全プロ化を断念した事で地域密着型プロを目指していたオーエスジーとの間に溝ができてしまった事が大きな要因とされる。しかし、新たな船出を迎えるJBL及び日本バスケ界にとって大きな衝撃となった。そして9月5日、フェニックスのJBLからの脱退が承認され、翌6日に2008-09シーズンからの参入が発表された。bjリーグでは「浜松・東三河フェニックス」として参入する。 一方、日本協会では2006年バスケットボール世界選手権で発生した多額の赤字を巡り、内紛が勃発。日本オリンピック委員会(JOC)から資格停止処分を受けるなど大きな混乱をきたした。結果、協会幹部が刷新されたが、その後一転して日本協会及びJBLはbjリーグの提携へ向けて歩み寄りを見せるようになった。(詳細は日本バスケットボール協会#評議委員会の内紛とJOC資格停止を参照) 国際バスケットボール連盟(FIBA)から「1国1リーグが望ましい」と、JBLとbjのリーグ統合を要望されたこともあり、2008年11月12日に検討委員会が設置された。両リーグ間の交流戦やオールスターゲームを行い、将来的にはプロ組織を一本化する方針を示している一方、女子のトップリーグであるバスケットボール女子日本リーグ機構(WJBL)のあり方についても整理することになる。日本協会の深津泰彦副会長が委員長を務め、bjリーグから河内敏光コミッショナーが検討委員会メンバーに加わる。 2009年3月にもbjリーグ球団及び選手の協会登録を認める意向を示しており、2009年度中に覚書の調印を目指す。そして2010年3月20日の理事会で承認された。4月以降協会登録が開始され、早ければ2010年アジア競技大会でbjリーグ選手が日本代表に選出されることになる。なお、2010年4月の日本代表候補発表時点では当時のbjリーグ所属選手は1人も選ばれていなかったが、8月に現役日本代表である石崎巧が島根スサノオマジックと契約している。 一方、リーグ統合についてはJBL、bjのどちらか一方に吸収させるのではなく、協会主導で2013年を目標に新リーグを発足させる方向で検討中である。2010年4月21日、協会はJBL、bjリーグとの3者で「次世代型トップリーグの創設に関する覚書」を調印。6月9日、協会内に「新リーグ準備室」を設立。また、新プロリーグ参加についてはbj・JBLとも各チームの判断に委ねられる。 なお、両リーグ間の交流戦については2011年オフから解禁とする方針である。ただし興行性のない練習試合、bj球団とJBL・JBL2以外の協会加盟チームとのプレシーズンは2010年より認める。 2011年12月5日、協会はJBL、bj両リーグの代表を集めて新リーグの案を提示したが、その案はプロリーグではなく、従来のJBLと変わらないプロと企業の混合リーグ案であったため、bj側のほぼ全チームが事業性を確保できず、参加は困難との立場を示している。 協会は12月15日より新リーグ参加チームの公募を開始し、2012年4月27日に締め切り。5月9日に23チームが応募したと発表したが、この時点では内訳は明らかにされなかった。
※この「bjへの転籍と歩み寄り」の解説は、「プロリーグ構想 (バスケットボール)」の解説の一部です。
「bjへの転籍と歩み寄り」を含む「プロリーグ構想 (バスケットボール)」の記事については、「プロリーグ構想 (バスケットボール)」の概要を参照ください。
- bjへの転籍と歩み寄りのページへのリンク