UWF版
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「WWFインターナショナル・ヘビー級王座」の記事における「UWF版」の解説
1983年、新間寿はお家騒動の責任を取らされる形で新日本プロレスを追放されたものの、依然としてWWF会長の座にあった。そこから新間は当時、引退したタイガーマスク(初代)を埋もれさせたくないと、タイガーをマディソン・スクエア・ガーデンでのWWFの大会に出場させ、その試合の模様を「ワールドプロレスリング」のなかに設けたWWFのコーナーで放映する、といった私案をマスコミに語っていたものの、これは私案のままで終わる。 1984年3月25日、マディソン・スクエア・ガーデンにて、突如として「WWFインターナショナル・ヘビー級王座決定戦」が開催された。これに出場したのはカナダ出身のピエール・ラファエル、そして、新日本プロレスに当時籍を置きながら謎の欠場を続けていた前田明だった。試合前に当地のWWF関係者から直々に激励も受けたという前田は、短時間で王座獲得に成功。決まり手はアバラ折り(コブラツイスト)だった。 前田が獲得したこの「WWFインターナショナル・ヘビー級王座」のベルトには、認定団体の名称(WWF)を差し置いてまで「UWF」の文字が大きく書かれており、前田は東京スポーツの記者にその意味を問われると「そうです、僕はUWFに行きます」「今の新日本は正規軍と革命軍の抗争に明け暮れ、本当のプロレスができない」と答え、UWFへの移籍を認めた。このタイトルマッチで用意されたチャンピオンベルトは、当時 藤波辰巳が保持していたチャンピオンベルトとは全くの別物でありながら、タイトル名称が同じという物議を醸すものであった。言わば、同じ名称のチャンピオンベルトが2本同時に存在する形となった。 その後、新間は正式に新団体・UWFを発足させ、それと同じオフィス内に「WWF日本支部」を設置した。 前田の王座奪取は東京スポーツなどで「藤波の同名王座は無効?」といった見出しと共に報じられたが、当然ながら藤波を始めとする新日本プロレスサイドは黙っていなかった。報道でこの件を知った藤波は「ひとつだけ言えるのはファンを甘く見るなということ。新団体ができてハイ新しいベルトができました、ではファンが納得すると思う?」と不快感を示したうえ、前田にIWGPリーグ戦への参加を呼びかけた。 また、坂口征二副社長は「冗談じゃない。この王座は新日本プロレスに管理運営権があるんだ」と主張、さらに「問答無用の仕事師」の異名で頭角を現した藤原喜明は、UWFへ殴りこんだうえでの前田との一騎討ちを要求した。のちに藤原は特別参加の形でUWFに参戦、前田とのシングルマッチも実現したが、これに件の王座は賭けられることはなかった。 その後、選手の離脱と加入などが相次いだUWFにおいて、前田は王座防衛戦の機会を逸する形となり、結局日本では一度もタイトルマッチが行われないまま(海外では、1984年5月21日にマディソン・スクエア・ガーデンにて、レネ・グレイを相手に防衛戦を行っているが、これが最初で最後の防衛戦となっている)、王座返上の形で事実上封印されるに至った。 尚、この王座は『UWFヘビー級王座』に改称された。前田が率いる「RINGS」の公式サイトにある前田自身のプロフィールにおいて、「元はWWFインターナショナル・ヘビー級王座だったが、旧UWFとWWFの関係が消滅したと同時に改称される」といった注釈付きで、「UWFヘビー級王座」と紹介されているのがその最たる例である。
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