The 3J's
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 04:08 UTC 版)
「ジェイソン・キッド」の記事における「The 3J's」の解説
多くの人々はキッドが沈み行く船に乗り込もうとしているように思えた。キッドが入団する2年前の1992-93シーズンにはNBA史上ワースト2位となる11勝71敗を記録し、翌1993-94シーズンも13勝69敗に沈んだマブスはリーグ最弱と言っても過言ではないチームだった。しかし1994年のオフ、マブスは1980年代に一時隆盛を誇った時代のマブスを指揮したディック・モッタをヘッドコーチに招聘、さらに薬物問題で3年間NBAを離れていた元マブスのロイ・タープリーを獲得し、手薄のインサイドを補強した。2年連続勝率1割台を記録し、低迷を極めたマブスだったが、1992年のNBAドラフト4位で指名したシューティングガードのジミー・ジャクソンに1993年のNBAドラフト4位で指名したスモールフォワードのジャマール・マッシュバーンと、優秀な若手は揃いつつあった。そして揃い始めた駒を上手く活かすためのポイントガードとして選ばれたのが、キッドだった。キッドはその期待に応え、21歳の新人に率いられた新生マブスは1994-95シーズン最初の16試合を9勝7敗と勝ち越し、その間、キッドが演出するファーストブレークの恩恵を受けたマッシュバーンとジャクソンはそれぞれ1試合50得点を記録。シーズンの前半終了を待たずして前年の13勝を上回る勝ち星を積み重ねる。シーズン終盤にはジャクソンが故障で戦線を離脱するも、キッドはその間平均15得点8アシスト以上の成績でチームを牽引し、シーズン最後の3週間では4回のトリプル・ダブルを達成している。キッドのルーキーイヤーの最終的な成績は平均11.7得点5.4リバウンド7.7アシスト1.9スティール。平均アシスト・スティールではリーグTop10入りを果たしている。キッドという若くも優秀な司令塔を得て前年の1試合平均100.4得点から107.6得点(平均失点は殆ど変わらず)と大幅な伸びを見せたマブスは、前年の倍以上の勝ち星となる36勝46敗の成績を残し、躍進の中心に居たキッドはデトロイト・ピストンズのグラント・ヒルと共に新人王を受賞。NBAプレーオフには届かなかったものの共に平均20得点以上を記録したジャマール・マッシュバーンにジム・ジャクソン、そして新人王ジェイソン・キッドのトリオ、The 3 J'sはマブスと共にその将来を期待される若手ユニットとなった。 マブスファンの多くは1995-96シーズンのプレーオフ進出について楽観的だった。しかし、開いてみればこのシーズンのマブスは災難だらけだった。まず開幕を待たずしてロイ・タープリーが薬物違反で永久追放され、さらにセンターのドナルド・ホッジはマリファナ所持で逮捕された。シーズン開幕は4連勝を飾ったものの、18試合目にはマッシュバーンが左膝の故障に見舞われ、以後の試合を全休させられる事態に追い込まれ、重要な得点源を失ったマブスは敗北を重ねる。辛い現実はチーム内に不協和音を響かせ、2月のユタ・ジャズ戦のハーフタイムではジャクソンとスコット・ブルックスの間でチームメート同士の殴り合いが発生し、前半でジャズに20点差をつけていたマブスはその後逆転負けを喫している。この事件によってキッドのジャクソンへの不信感が高まり、キッドはシーズンが終了するまでの間、バックコートの相棒とほとんど口をきかなくなった。チームの不祥事が多発するなか、キッドは孤軍奮闘し、そんな彼の姿を地元ダラスのファンも支持した(フォートワース・スター・テレグラム社が集計したダラス市民が支持するスポーツ選手において、キッドはダラス・カウボーイズのトロイ・エイクマンに次ぐ2位だった)。NBAオールスターゲームにはファン投票によって選ばれ、マブス史上初のオールスター先発選手となり、試合ではゲームハイの10アシストを記録。シーズンの個人成績は平均16.6得点6.8リバウンド9.7アシスト2.2スティール、9.7アシストはリーグ2位、2.2スティールはリーグ4位、6.8リバウンドはガードの選手の中では1位の好記録であり、さらに史上6人目の通算700アシスト500リバウンド以上達成者となった(一方でターンオーバーは平均4.0回、通算328回でリーグワースト1位となり、またFG成功率は2年連続で40%を下回った)。しかしキッドの奮闘も甲斐なく、マブスは26勝56敗と前年の勝率を割り込んだ。
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