NWOBHM期〜解散(1979年 - 1989年)
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マイケル脱退後、UFOは即座に後釜として、再びポール・チャップマンを迎えてツアーを再開。1979年6月には来日公演を行った。 翌1980年1月にはビートルズのプロデュースで知られるジョージ・マーティンを起用し、アルバム『ヘヴィ・メタル・エクスペリエンス』(No Place to Run)を製作、発表。若手によるNWOBHMムーブメントがベテラン・バンドへの追い風にもなり、バンドは精力的にツアーをこなし、8月にはレディング・フェスティバルでトリも務めた。しかし直後にポール・レイモンドが脱退し、後任にニール・カーター(g. & key.)が加入。バンドは以前と変わらないように見えたが、勢いを失いはじめていた。 1981年1月に発表されたアルバム『ワイルド/ウィリング/イノセント』(The Wild, The Willing And The Innocent)は、バンドによる初のセルフ・プロデュース作品で、シングル「Lonely Heart」をイギリスでリリースした。 1982年2月に発売されたアルバム『メカニックス』(Mechanix)はゲイリー・ライオンズをプロデューサーに迎えたことでバランス感覚の優れた1枚となり、イギリスでは久々にチャートのTOP10に入るヒット作となった。ポップなシングル「let it rain」もイギリスでは好調だった。しかしアルバム発表後のアメリカ・ツアー中、バンドの音楽性に異を唱えたピート・ウェイが自己のグループを立ち上げるために脱退。バンドは代役にピーター・ファーンドンを起用しツアーを遂行した。 バンドは専任ベーシスト不在のままアルバム『メイキング・コンタクト』(Making Contact)を製作、1983年初頭に発売した。シンフォニックなキーボードとメタリックなギターを前面に打ち出し、新たなスタイルを提示するがセールスは伸び悩んだ。 バンドはピートの後任にビリー・シーン(b.)を加えヨーロッパ・ツアーを開始、その後のイギリス・ツアーでは元ダムド(パンク・バンド)のポール・グレイ(b.)に交代した。 しかしバンドは不安定なメンバー構成とセールス不振に疲弊し、1983年4月、遂に解散することになった。このため翌5月に予定されていた来日公演は幻となってしまった。 バンド解散後の1983年10月、彼等の歴史を総括したようなベスト・アルバム『ヘッドストーン』(Headstone)をリリース。 1984年12月、フィル・モグ主導により新しいメンバーでUFOが再始動する。注目のギタリスト候補には、当時売り出し中だったイングヴェイ・マルムスティーンの名前もあったが、結局日系人ギタリストアトミック・トミー・Mが迎えられた。ベースはピート・ウェイではなく、前作のツアーから引き続いてポール・グレイが担当、キーボードにはポール・レイモンドが復帰した。 イギリス・ツアーを経て1985年11月、アルバム『ミスディミーナー』(Misdemeanor)をリリース。キーボードサウンドに、トミーの卓越したギター・プレイをフィーチャーしたアルバムは、前作『メイキング・コンタクト』で打ち出したサウンドをより発展させた意欲作であった。 その後アメリカ・ツアーも行われたが、バンドを再興しようとしたフィルの熱意も商業的には成功せず、1987年に主要メンバーが脱退しバンドは再び崩壊してしまう。翌1988年には次回作用に録音された音源が、ミニ・アルバム『殺気!』(Ain't Misbehavin)として発売された。主要メンバーは抜けてしまったが、フィル・モグは独自にメンバーを集い1989年頃まで細々ながらも活動を続けた。
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