INDブルックリン線(1933年 - 1954年)
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「INDカルバー線」の記事における「INDブルックリン線(1933年 - 1954年)」の解説
ニューヨーク市長のジョン・フランシス・ハイラン(英語版)が、1920年代に提案したインディペンデント・サブウェイ・システム (IND) の目標の1つとして、コニー・アイランドへの路線が挙げられており、BMTカルバー線を傘下に収めることで実現することになっていた。INDの主要幹線であるIND8番街線とBMTカルバー線を接続するために、ブルックリン・ボロー・ホール(英語版)からジェイ・ストリート、スミス・ストリート、9丁目、そのほかいくつかの通りの下をコーテルユー・ロード駅(後のチャーチ・アベニュー駅)まで、そしてディトマス・アベニューの高架駅のすぐ南側でマクドナルド・アベニューの下を地下線を建設することになった。そこから勾配線が建設されて高架のBMTカルバー線に続くことになっていた。この路線は、カルバー延長線、カルバー-スミス・ストリート線、スミス・ストリート線、スミス・ストリート-プロスペクト・パーク線、スミス-9丁目線、ジェイ-スミス-9丁目線、チャーチ・アベニュー線、プロスペクト・パーク-チャーチ・アベニュー線、ブルックリン線、サウス・ブルックリン線など、様々な名前で呼ばれていたが、単純にINDのブルックリン区間と呼ばれることもあった。1927年には、初期の計画にあった深い河底トンネルに代わり、費用面を考慮してゴワーナス運河を乗り越える橋を建設することになった。これにより、INDの当初の区間の中では唯一の地上区間ができることになった。この路線の最初の区間は1933年3月20日に開通し、8番街線の急行A系統(そして7月から8月までの1か月ほどにわたってC系統)がジェイ・ストリート駅から南へバーゲン・ストリート駅まで運行されるようになった。残りの区間は1933年10月7日に、一時的な終点とされたチャーチ・アベニュー駅まで開通した。ここは、ディトマス・アベニューにあるカルバー高架線から3ブロック離れた場所であった。1936年に、A系統の列車はINDフルトン・ストリート線へと運転されるようになり、INDクイーンズ・ブールバード線から来るE系統の列車が代わりに運行されるようになった。1937年には、INDクロスタウン線との連絡が開通し、GG系統の列車がスミス・ストリート-9丁目駅まで延長された。IND6番街線が1940年12月に開通すると、E系統の代わりにF系統が運行されるようになった。 IND第2路線網として提案された様々な延長計画の一環として、INDカルバー線のベイ・リッジ(英語版)への支線が構想され、BMT4番街線のために計画された、実現しなかったスタテンアイランドトンネルとの接続も含まれていた。1931年の提案では、スミス・ストリート-9丁目駅から南に路線を伸ばして、レッド・フック(英語版)、ゴワーナス(英語版)を経由してセント・ジョージ・ターミナルへと通じることになっていた。1933年の提案では、スミス・ストリート9丁目駅と4番街駅の間で分岐し、ベイ・リッジの2番街を走ってトンネルへ向かうことになっていた。他のINDの路線同様に、この経路は当時すでに民間で運営されていた4番街線と直接競合することになるものであった。1939年のIND第2地下鉄網計画の最終案では、フォート・ハミルトン・パークウェイまたは10番街からトンネルへ路線を伸ばし、BMT4番街線の86丁目駅近くまでも路線を伸ばす計画であった。この路線はフォート・ハミルトン・パークウェイ駅およびチャーチ・アベニュー駅の近くから分岐する予定であった。1940年には、INDの路線をBMTウェスト・エンド線にフォート・ハミルトン・パークウェイ駅の近くで接続する構想も生まれた。1946年の運輸委員会の計画では、ウェスト・エンド線への接続および86丁目への延長の両方を含んだ。しかし実際に建設された構想は1本もなかった。
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