BWR-4型78.4万kWタイプとの決別
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「福島第一原子力発電所6号機の建設」の記事における「BWR-4型78.4万kWタイプとの決別」の解説
このような状況下の1969年、GEは新たな原子力プラントしてジンマー型(後BWR-5と呼称)を発表した。 『東電社報』で発表されている年度毎の電力施設計画を追っていくと次のようになっており、1968年度までは78万4000kWのプラントは都合3機の予定であったものが、1970~1971年度には既存着工済の分と「場所を明示しない記号地点」を合計し都合5機のプラントが明記された。また、電力会社9社と電源開発が集まって組織された中央電力協議会(中電協)は政府の電源開発調整審議会とは別に電源の長期計画(10ヶ年)を毎年作成していた。社報に掲載されているのは直近の一部の計画のみであり、まとめると下記のようになる。1972年度になると本発電所には後の6号機として110万kWのタイプが明示される。 電力施設計画(東京電力分)1967年度1968年度1970年度1971年度1972年度着工済(参考) 1号機:1967/9- 1号機:1967/9- 1号機:1967/9-2号機:1969/5- 1号機:1967/9-1971/22号機:1969/5-1973/53号機:1970/10-1974/125号機:1971/12-1975/12 1号機:1967/9-1971/32号機:1969/5-1973/53号機:1970/10-1974/125号機:1971/12-1976/84号機:1972/9-1975/12 東電社報掲載分 2号機:1968-3号機:1970/1- 5号機:1971/10-1975/12- 4号機:1972/1-1976/3N1:1972/3-1976/6、78万4000kWN2:1973/1-1977/12、110万kW 6号機:1971/12-1976/10、110万kW 中電協長計にのみ掲載2号機:1967-1973、78万4000kWL:1970-1975、78万4000kWM:1972-1976、78万4000kWN:1973-1977以降運開、110万kWO:1974-1977以降運開、110万kWP:1975-1977以降運開、110万kWQ:1976-1977以降運開、100万kW M:1971/11-、78万4000kWM:1973/7-、110万kWO:1974/6-、110万kWP:1975/6-、100万kWQ:1976/5-、110万kWR:1977/6-、110万kW N1:1972/1-、78万4000kWN2:1972/3-、78万4000kWN3:1973/1-、110万kWN4:1974/8-、110万kWN5:1974/11-、110万kWN6:1975/8-、110万kWN7:1976/1-、110万kWN8:1976/8-、110万kWN9:1976/12-、110万kWN10:1977/8-、150万kWN11:1977/11-、150万kWN12:1978/7-、150万kWN13:1978/8-、150万kWN14:1979/7-、150万kWN15:1979/8-、150万kW N3:1974/8-1979/7、110万kWN4:1974/11-1979/6、110万kWN5:1975/8-1980/7、110万kWN6:1976/1-1980/8、110万kW(他) 福島第二:1972/10-1978/1、110万kWN1:1973/2-1977/12、110万kWN2:1975/4-1979/8、110万kWN3:1975/9-1980/1、110万kWN4:1975/10-1980/5、110万kWN5:1975/12-1980/10、110万kWN6:1976/9-、110万kWN7:1977/3-、110万kWN8:1977/7-、150万kWN9:1977/7-、150万kWN10:1978/6-、150万kWN11:1978/6-、150万kWN12:1979/7-、150万kWN13:1979/7-、150万kWN14:1979/7-、150万kWN15:1980/7-、150万kWN16:1980/7-、150万kWN17:1980/8-、150万kW 問題はいつの時点で炉型を乗り換えるかである。原子力技術の研究開発が進行する一方で、当時の東京電力は需給逼迫の状況に置かれていた。田中直治郎は『電気情報』1971年2月での対談で「電力の需要増の傾向は昭和二十六年九電力会社発足以来、毎年一二~一三パーセント程度であって、何時も予想よりも実際のほうが多かったのですが、特にこの二年ほどはその傾向が甚だしく、ついに一四~一五パーセントの増加になったのです。」と述べ、1970年の夏期(9月初頭を含む)には供給余力の逼迫状態に陥ったことを説明している。そして既定の電力開発計画については「昭和五十年ころまでの需給については原子力開発を含めて何とかやれる」としていたが、本発電所のプラントは既に4号機までの5機が計画に繰り入れ済であり、5、4号機については1975年以降の運転開始を予定していた。そして田中は「五号機までは七八万四千キロワットのBWR型機の国産でいく、そういう考えでいます」と場所を明示しないN1などには触れず、続けて「福島の七八万四千キロワットにつぐものは一一〇万キロワット級ですが、これはまだアメリカでも建設中で運転されてはいない。しかし当社は四十六年には開発のハラを決めるでしょう。四十六年か、遅くとも七年には着工し(中略)これにBWR型を採用するか、あるいはPWR型を採用するのか、今のところ全く白紙の状態です」としていた。
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