1993年 - 1998年
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「横浜フリューゲルス」の記事における「1993年 - 1998年」の解説
1993年 Jリーグ発足前から監督を務めていた加茂周の下でゾーンプレスを採用し注目を集めた同年、チームは1st、2ndステージとも7位に終わった。 しかし、天皇杯では快進撃を続け、決勝で1stステージの王者、アントラーズに終了間際に同点とされ延長戦となるも、延長戦で4ゴールを決め6-2で勝利。Jリーグ開幕後初の天皇杯で優勝した。 1994年 1stステージの第4節から第11節にかけ8連勝して一時は2位になるなどし、最終的に5位となった。しかし、攻撃の要として活躍していたアマリージャがこのステージ限りで退団・引退するとチームは低迷。2ndステージは8位に終わった。この年限りで、エドゥー、フェルナンド・ダニエル・モネール、バウベル・ダ・シルバ・コスタらもチームを去っている。 1995年 加茂が日本代表の監督に就任するため退任、ヘッドコーチであった木村文治が監督に就任した。現役ブラジル代表を含むブラジルトリオ(ジーニョ、セザール・サンパイオ、エバイール)の加入が話題を呼んだが、1stステージでは14チーム中13位に終わる。木村は1stステージ第14節で監督を辞任、後任のアントニオ・カルロス・シルバもチームを上位に押し上げることが出来なかった。大量失点しまうことが多く、両ステージを合わせた失点数がリーグワーストであった。しかし、シルバの若手起用の下、楢崎正剛、吉田孝行、波戸康広といったこの年入団した選手が台頭した。 1996年 オタシリオが監督に就任。前年度チームに加入したブラジルトリオがチームにフィットし、三浦淳、前園、山口素などの活躍もあり、開幕8連勝(うち開幕6試合無失点記録を樹立)するなど、リーグ前半を首位で折り返した(もし前年度までの2ステージ制ならば1stステージ優勝であった)。しかしアトランタ五輪後に再開した後半戦で勝ち点を伸ばしきれず、優勝したアントラーズ、2位のグランパスと勝利数は21で並ぶものの、勝ち点で及ばず最終順位は3位となった。 1997年 エバイール、前園が退団した一方、バウベルが1994年以来の再入団。1stステージでは最終節までアントラーズと優勝争いを繰り広げ、惜しくも優勝を逃した(勝ち点差2で2位)。しかし、1stステージ限りでチームの躍進を支えたジーニョが退団すると、得点力が低下し、2ndステージは11位と低迷した。この年限りで、オタシリオ監督が退任。 1998年 カルロス・レシャックが監督に就任。3-4-3スタイルを取ったチームは開幕戦の横浜ダービーでマリノスを延長の末2-1で下すなど好スタートを切ったが、攻撃的スタイルの弊害から翌節から5連敗。その後7連勝するなどし1stステージは10勝7敗の成績を残した。しかし、2ndステージに入ると守備が破綻するなど低迷し、レシャックは2ndステージ第8節をもって不振の責任を取って辞任した。後任監督にはコーチだったゲルト・エンゲルスが昇格した。
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