1993年 - 1994年 初参戦
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「ザウバー」の記事における「1993年 - 1994年 初参戦」の解説
1993年、デビュー戦の南アフリカGPではJ.J.レートが5位に入賞。シーズンを通してマシントラブルが多かったものの、決勝最高4位(2回)、合計12ポイントを獲得し、コンストラクターズランキング6位という上々の成績を収めた。メルセデスの支援は同年末までとされていたが、翌年以降も継続されることになる。 1994年、メルセデスはイルモアエンジンを正式に「メルセデスエンジン」と呼称して、F1(ザウバー)とCART(ペンスキー)の両シリーズへ供給した。ザウバーはメインスポンサーとしてドイツで刊行されている金融雑誌「ブローカー」と契約したが、約束の金額が振り込まれないトラブルが発生し、新たにスイスの時計メーカースウォッチ(ブランド名はティソ)がメインスポンサーとなった。ドライバーはベネトンへ移籍したレートに代わり、全日本F3000で活躍していた元ジュニアチームのハインツ=ハラルド・フレンツェンを起用した。 第4戦モナコGPで、エースドライバーのカール・ヴェンドリンガーがフリー走行中にクラッシュして瀕死の重傷を負った。チームはドライバーの頭部が剥き出し状態であったことが重傷を負った原因と判断し、空力効率よりもドライバーの安全を優先して、次戦よりザウバー・C13のコクピット側面に自主的にサイドプロテクターを装着した)。残りのシーズンは「壊し屋」の異名をもつアンドレア・デ・チェザリスが出走し、終盤2戦はベネトンを解雇されたレートを起用した。 メルセデスは2年間の結果をみて、翌年からエンジンの独占供給先を強豪チームのマクラーレンへの変更を決断、ザウバーとの長年のパートナーシップに終止符が打たれた。
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