1982年、事故死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 06:14 UTC 版)
「ジル・ヴィルヌーヴ」の記事における「1982年、事故死」の解説
エンツォの肝いりにより、ハーベイ・ポスルスウェイトをデザイナーに迎えて作られた新車126C2は、他チームと遜色のないマシンに仕上がり、ようやくヴィルヌーヴはチャンピオンを獲りに行ける環境を手に入れた。 序盤3戦はリタイヤ・失格が続いたが、第4戦サンマリノGPは、ヴィルヌーヴがトップ、ピローニが2位と、2台のフェラーリが他を大きく引き離す状態でレースが進んだ。終盤には「燃費に注意を払い、無用な戦いを避けるように」との意味でピットから「"SLOW"」のサインが出され、ヴィルヌーヴはリスクを冒さず、ペースを落とした。 しかし2位のピローニはレース終盤にヴィルヌーヴを追い越してしまった。元々このレースは、F1シリーズの統括団体である国際自動車スポーツ連盟(FISA)と、F1シリーズの興行を取り仕切るF1製造者協会との政治的な対立から多くのチームがボイコットし、FISAに与するチームの僅か14台しか出走していなかったため、ヴィルヌーヴは当初この追い越しを「見所の減ったレースで観客を喜ばすための余興」だと考え、トップを奪い返した。しかしピローニは最終ラップで再度抜き返し、ヴィルヌーヴはペースを上げてピローニを追ったが、結局2位に終わった。 表彰式でシャンパンを手にはしゃぐピローニの後ろで、ヴィルヌーヴは無言を通したが、内心はピローニに対して激しく怒っていたといわれる。ヴィルヌーヴはこの事件以降ピローニを拒絶し、「もうあいつとは口を利かない、チームメイトとしても扱わない」と発言するなど、両者の関係は修復不可能なほど悪化してしまう。 続く第5戦ベルギーGP(ゾルダー・サーキット)の予選2日目(1982年5月8日)、予選終了10分前ほどにピローニが自身の予選タイムを0.15秒上回ったのを知ったヴィルヌーヴは、再び予選アタックを行うべくコースに出た。ピローニのタイムを更新することができないまま周回を続ける中、シケインの後の長い左カーブでスロー走行であったRAMマーチのヨッヘン・マスに遭遇した。マスはヴィルヌーヴの接近に気付き、レコードラインを譲ろうとした。しかしヴィルヌーヴもレコードラインの外から抜き去ろうと車線を変更し、結果として両者は同じ方向(アウト側)に動いてしまった。この時、ヴィルヌーヴ車は時速230km/hに達していたと推定される。 ヴィルヌーヴ車の左フロントタイヤがマス車の右リアタイヤに乗り上げ、回転しながら宙に舞い上がった。マシンは前部から路面に激突して150m垂直状態のまま横転して大破し、ヴィルヌーヴの身体はシートごとマシンから投げ出され、コース脇のフェンスに叩きつけられた。現場や病院で救急隊により蘇生処置が施されたが、ちょうど支柱のあった場所に叩きつけられていたヴィルヌーヴは頚椎その他を骨折しており、その日の夜9時過ぎに死亡した。32歳であった。この一部始終は蘇生処置まで含めて映像として残っており、1983年の「ウィニング・ラン」、1987年の「グッバイ・ヒーロー」などの映画で紹介されている。
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