1968年から1970年代
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「シンシナティ・ベンガルズ」の記事における「1968年から1970年代」の解説
1968年、チームは3勝11敗に終わったがRBのポール・ロビンソンが1023ヤードを走り、AFLの最優秀新人選手に選ばれた。ポール・ブラウンがヘッドコーチを務めたが彼はドラフトで平均より知性の高い選手を取ることを好んだ。ハーバード大学からP、WRであったポール・マキナリー、ダートマス大学からはLBのレジー・ウィリアムスが入団した。この戦略のためか、多くの引退選手が解説者として成功を修めた。1969年のNFL/AFLドラフト全体5位でQBグレッグ・クックを獲得、彼はこの年AFL最優秀新人に選ばれた。 1970年シーズン、AFLとNFLの統合がされた初のシーズン、チームは1勝6敗から最終週にボストン・ペイトリオッツを45-7で破り7連勝し、8勝6敗でAFC中地区優勝を果たしプレーオフに出場した。プレーオフでは第5回スーパーボウルに出場したボルチモア・コルツに0-17で敗れた。 1970年代にチームは3回プレーオフに進出したがいずれのシーズンもプレーオフで勝利をあげることはできなかった。1972年12月17日のヒューストン・オイラーズ戦ではチーム史上最多得点となる61-17で勝利した。この試合ではディフェンスバックのレマー・パリッシュがチーム記録となる3インターセプトをマークしている。この年5年目のRBエセックス・ジョンソンがチームトップの825ヤードを走った。 1973年シーズン、最後の6試合に勝利し10勝4敗で地区優勝を果たしたがマイアミ・オレンジボウルでこの年第8回スーパーボウルを制するマイアミ・ドルフィンズに16-34で敗れシーズンを終えた。エースRBのエセックス・ジョンソンはいったんは1000ヤードランを達成したが、シーズン最後のプレーで5ヤードをロスし997ヤードでシーズンを終えた。 1974年11月10日のピッツバーグ・スティーラーズ戦ではケン・アンダーソンが22本中20本のパスを成功、1試合におけるパス成功率NFL記録を作った。この年、アンダーソンはQBレイティングでNFLのQBトップの成績を残した。 1975年11月17日、マンデーナイトフットボールでのバッファロー・ビルズ戦で相手RBのO・J・シンプソンに197ヤードを走られたがアンダーソンがアイザック・カーティスへ137ヤード、チップ・マイアーズへ108ヤード、チャーリー・ジョイナーへ90ヤードなど、パスで447ヤードを獲得し33-24で勝利した。チームはフランチャイズ史上最高勝率となる11勝3敗の成績をあげて、アンダーソンは2年連続NFLのQBレイティングトップとなったが、スティーラーズが12勝2敗で地区優勝し、ワイルドカードでのプレーオフ出場となった。第5週に14-10で破っているオークランド・レイダースとの対戦となったが28-31で敗れた。 1975年シーズン終了と共にポール・ブラウンはヘッドコーチとして8シーズンで40勝32敗の成績を残しオーナー兼ゼネラルマネージャーとなった。 1976年12月12日のシェイ・スタジアムでのNFL最後の試合となったニューヨーク・ジェッツ戦で相手QBのジョー・ネイマスを4回サック、ディフェンスバックのケン・ライリーは3インターセプト(ネイマスから2回、リチャード・トッドから1回)して42-3で勝利した。この試合がネイマスのジェッツでの最後の試合となった。コイ・ベイコンはこのシーズン、22回相手QBをサックしたがサックがNFLの公式記録となるのは1982年まで待たねばならなかった。 1976年からビル・タイガー・ジョンソンが指揮を執っていたが1978年シーズン開幕から5連敗したところで辞任、2年あまりでの成績は18勝15敗であった。彼の後任にはホーナー・ライスが就任し1979年シーズンまでヘッドコーチを務め8勝19敗の成績であった。この間、1978年10月22日のバッファロー・ビルズ戦では5-0とチーム史上最少得点での勝利もあった。
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