1920年代~30年代、シカゴでの隆盛
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「ブギ」の記事における「1920年代~30年代、シカゴでの隆盛」の解説
1917年、シカゴ・ディフェンダー紙主筆ロバート・S・アボットが南部の黒人たちに北部への移住を呼びかける。「北部で自由人として凍えて死ねる権利があるというのに、なぜ南部で奴隷として凍死しなければならないのか?」。1900年に3千人だったシカゴの黒人総数は1920年には10万9千人まで増加、その90%は他州からの移住者だった。人々が集まりピアノが置いてある所ならどこへでも行く、そんなピアノ弾きがシカゴに集まった。 1927年、ミード・ルクス・ルイス、「ホンキー・トンク・トレイン・ブルース」録音。1905年イリノイ州シカゴ生まれ。「ルクス」はルクセンブルク公爵に由来するあだ名。少年時代に線路脇に住んでいた体験を元に書かれた「ホンキー・トンク・トレイン・ブルース」をパラマウントに吹き込む。 1928年、カウ・カウ・ダヴェンポート、「カウ・カウ・ブルース」録音。1894年アラバマ州アニストン生まれ。独学でピアノを学び旅回りの一座に入り鉱山キャンプや売春宿を巡業。テキサスで聴いた「ザ・カウズ」(牝牛たち) という曲をアレンジし「カウ・カウ・ブルース」を作曲、ドーラ・カーとコンビを組み自分の一座を結成、デトロイトやシカゴなど北部のプレイヤーに影響を与える。1928年7月16日、シカゴで録音された「カウ・カウ・ブルース」ではダヴェンポート自身「自分が発明した」と主張するウォーキング・ベース が聴かれる。1955年没。 1928年、パイントップ・スミス、「パイントップス・ブギ・ウギ」録音。1904年アラバマ州トロイ生まれ。赤毛のためパイントップと呼ばれる。1927年、ピッツバーグのスター劇場出演中、カウ・カウ・ダヴェンポートに励まされる。「おい、おまえさんなんともいやらしくブギウギしてるじゃないか」スミスはシカゴに出て部屋を借りる。偶然そこにはミード・ルクス・ルイスとアルバート・アモンズが居住していた。1928年12月29日、シカゴで録音された「パイントップス・ブギウギ」は音楽史上最初のブギウギ・レコード (タイトルに「ブギウギ」の語句が使用された最初のレコードの意) となる。1929年3月、パーティで起きた喧嘩口論による発砲事件に巻き込まれ死亡。 ピート・ジョンソン、1904年ミズーリ州カンサス・シティ生まれ。1920年代から小編成のバンドを持ちKCのクラブで活動。「サンセット・クラブ」のバーテンダー兼歌手のビッグ・ジョー・ターナーとのコンビが人気を博す。「ピート・ジョンソンはブギに優れていましたが、決してブギだけを弾いている人ではありませんでした。ただカンサス・シティ生まれのテナー・マンのベン・ウェブスターのような人が『俺を揺さぶれ、みんなを揺さぶれ。ピート、みんなをジャンプさせるんだ』とわめいたときだけ私たちのためにブギを弾いてくれるのでした。」(メリー・ルー・ウィリアムス)1938年12月、「ライブラリー・オブ・コングレス」のために最初の録音を行う。 1929年、世界恐慌。 1938年9月、トミー・ドーシー楽団「ブギ・ウギ」全米3位のヒット。ディーン・キンケイドが「パイントップス・ブギウギ」をビッグバンド用に編曲したこの曲をドーシー楽団はその後1943年 (5位)、1945年 (4位)と都合3回ヒットさせている。 1938年12月、ニューヨーク、カーネギー・ホールで「フロム・スピリチュアル・トゥ・スィング」開催。主催者ジョン・ハモンドの奔走によりアルバート・アモンズ、ミード・ルクス・ルイス、ピート・ジョンソンの出演が実現する。大変な評判となり翌39年には「ブギウギ・トリオ」としてシカゴの「シャーマン・ホテル」に出演、これをNBC放送が中継した。
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