19世紀末から1910年代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/28 05:57 UTC 版)
「台湾の日本酒」の記事における「19世紀末から1910年代まで」の解説
1895年に日本による統治が始まると、台湾には多くの日本人が移住し日本酒に対する需要が生まれた。台湾には伝統的な蒸留酒が存在していたが、亜熱帯の気候は日本酒造りに適さず、1901年には当時居住していた42,000人の日本人に向けて日本から16,493石(2,969kL)の日本酒が移入されている。この頃から、台湾各地で日本人が清酒の製造を試みるようになり、1907年には8名の日本人業者が個人の酒造免許を保有していた。その多くは本格的な醸造ではなく再製清酒であり、1910年頃の台湾中部では再蒸留して臭気を除いた糖蜜酒を使用していた。 当時は容量1石2 - 3斗(216 - 234L)の甕を使い、冬季の12 - 3月に仕込みが行われた。酒母造りで生酛は困難なため、水酛と呼ばれる菩提酛が多くの場合採用されていた。段掛けは多くの場合2段掛けであり、留添えから早ければ6 - 7日で発酵を終了させていた。もろみを圧搾してからはすぐに火入れを行って出荷するなど、暑い気候に対応した製法が取られていた。 1914年には、台湾総督府技師の藤本鐵治と東京税務監督局技手の森康宏らが独立し、日本芳醸社を設立した。同社は冷却器を備えた鉄筋コンクリート造りの建物で、先進的な技術を取り入れた酒造を行った。酛米には肥前産の粳米、麹米には台湾中部産米を用い、酛は山廃酛や速醸酛を採用している。「胡蝶蘭」、「高砂」などの清酒を造り、マニラやシンガポールにも試験出荷したが腐敗しなかったという。1917年には台北庁管内で生産された日本酒6,785石(122kL)のうち4,093石(737kL)を占めるなど好調だったが、工場内の微生物汚染が原因で1920年頃には清酒製造からアルコール精製に業務を転換している。 このほか、1916年には大正製酒が設立され、1922年の時点で台中および嘉義の工場で合計2,053石(370kL)の再製清酒を製造していた。1912年に本島人によって設立された埔里社酒造は、酒造に適した埔里街の気候を活かして年間894石(161kL)の米酒とともに同125石(23kL)の再製清酒を製造していた。これらの活動によって、1900年代に2,500 - 3,800石(450 - 684kL)だった日本酒生産量は、1914年には5,000石(1,800kL)、1918年には10,290石(1,852kL)となっている。
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