19世紀末~第2次世界大戦
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「ポーランド農民党」の記事における「19世紀末~第2次世界大戦」の解説
19世紀末の1895年、オーストリア領で農民党(Stronnictwo Ludowe,SL)が結成された。当初は議会選挙における集票組織としての性格が強かったが、1903年にポーランド農民党(PSL)に改称し明確な政治綱領を有する政党となり、1913年の議会選挙で議会進出を果たした。当時の農民党は議会政治家であるヴィンツェンティ・ヴィトス(en:Wincenty Witos)の指導下で穏健路線を採っていたが、これに反発した急進派が1913年に農民党左派を結成したことで分裂した(1915年にロシア領で結成された解放派に合流)。 独立後のポーランドにおいて農民党ピャスト派は中道政治勢力を代表する政党として存在感を発揮した。農地改革については穏健な立場を採り、国家における教会の役割も容認し、辺境におけるポーランド人の地位向上を主張した。中道政党でありながら右派政党であるエンデツィア(ポーランド国民民主党)との連立を志向していた。そして地域的にはガリツィア地域で優勢だったものの、旧ドイツ領での影響力は殆ど無かった。一方、農民党解放派は急進的な農地改革・反教権主義・少数民族自治を主張するなど、左翼政党であるポーランド社会党と共通の立場をとった。解放派の勢力は旧ロシア領に限定され、それ以外の地域では著しく弱かった。 ピャスト派や解放派などに分裂していた農民党諸勢力は、1926年のユゼフ・ピウスツキによるクーデター以後、大同団結し1931年3月に統一を実現、ヴィトス率いる農民党は権威主義的政権下における最大野党勢力として活躍、国外で結成された穏健派のモルジュ戦線と協同した。1939年9月にナチス・ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が勃発すると、農民党は抵抗運動(レジスタンス)に参加し、ポーランド亡命政府に党首のスタニスワフ・ミコワイチク(en)を送り込んだ。
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