19世紀終盤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/08 03:07 UTC 版)
「シーボード・エア・ライン鉄道」の記事における「19世紀終盤」の解説
綿、タバコなどの生産品をピードモント大地からポーツマスまで運搬し、また旅客輸送も行うことで、1850年代には盛況を誇ったこの鉄道であったが、南北戦争(1861年〜1865年)の勃発にその動きが止まってしまった。南北両軍により、橋梁や軌道が繰り返し破壊されたのである。戦後にようやく盛況を取り戻し、1873年の恐慌の中でも利益を出し続けた。株主への配当は毎年8%であった。 1871年、R&Gが、唯一ハムレットに到達していたローリー・アンド・オーガスタ・エア・ライン鉄道を取得した。ところが、1873年、R&Gとその子会社は資金繰りに行き詰まった。シーボード・アンド・ロアノーク鉄道の社長であるジョン・M・ロビンソンはその危機を救い、計3社の社長となった。 1881年までに、シーボード・アンド・ロアノーク鉄道、R&Gをはじめとする何社かも支線も含めて一体として運営を行うシーボード・エア・ライン・システムを構成する形となった。この名称は、主たるふたつ鉄道名を結合したものであった。 1881年、シーボード(訳注 シーボード・エア・ライン・システムを指すのか、シーボード・アンド・ロアノーク鉄道を指すのか未調査。以下同)はモンローを経てシャーロットまで路線を延ばした。そして1889年、まだ竣工していなかったジョージア・カロライナ・アンド・ノーザン鉄道(GC&N)をリースした。この鉄道はモンローからアトランタに向かう路線として建設が進められており、1892年に開通した。 業績が好調であった1890年代、アトランタと米国北東部を結ぶ優等旅客列車の運行を誇りとしていた。その列車は'S.A.Lトレイン'といい、プルマン形客車を連ねた編成でアトランタからポーツマスの波止場まで運行されていた。ポーツマスでは、旅客はそのままボルチモアやニューヨークへの蒸気船にんりかえることができた。また、ACLの路線を使用する優等列車の'アトランタ・スペシャル'が毎日アトランタとワシントンD.C.を結んでいた。その列車は、ACLのウェルドン〜リッチモンド間と、リッチモンド・フレデリックスバーグ・アンド・ポトマック鉄道(RFP)のリッチモンド〜ワシントンD.C.間を利用した。 1898年から1900年の間に、シーボードはノースカロライナ州ノーライナからリッチモンドまでの路線を敷設し、アトランタからリッチモンドまでの路線が完成した。
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