19世紀後期の路線建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 23:30 UTC 版)
「ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道」の記事における「19世紀後期の路線建設」の解説
また、ふたつの路線が南側へ延伸された。そのうちのひとつ、1874年に建設されたアレクサンドリア支線はハイアッツビルとシェパードのフェリー乗り場を結んだ。フェリーの運航は、ワシントン・ユニオン駅が設置された1901年まで行われた。ワシントン・ユニオン駅は、PRRとB&Oがそれぞれ独自の駅をワシントンD.C.に持っていたものを統合して共同で設置した駅である。 アレクサンドリア支線のシェパードへの路線は第二次世界大戦において非常に重要な役割を果たした。ポトマック川を渡るロング・ブリッジの輸送量が逼迫していたために、アメリカ陸軍工兵司令部がB&Oが当初予定したのと同じくシェパードとアレクサンドリア (バージニア州)を結ぶ橋を建設していたためである。 B&OとPRRの両路線が接続される以前、ほかにもワシントンD.C.の西側に建設された路線があった。1880年代、B&Oは経営が破綻したバージニア州のバージニア・ミッドランド鉄道(VM)を再編成した。VMの路線はアレクサンドリアからバージニア州ダンビルへ向かうものである。この周辺に、ポトミック川を渡って西進する路線の計画があった。当初、D.C.ラインの北側を通って南西に進み、フェアファックス (バージニア州)でVMに接続し、可能ならばクアンティコまで延ばしてリッチモンド・フレデリックスバーグ・アンド・ポトマック鉄道に接続する予定であった。 この支線は1892年に建設が始まり、同年にはメリーランド州シェビー・チェースに達した。財政的問題がB&OとVM双方に生じたため建設は一時中断され、さらにB&OはVMのコントロール権を失ってしまった。破産後、建設はPRRに委ねられ、1910年に完成。川を渡る部分はどこにも作らなかった。この路線はジョージタウン支線となった。この路線は多くの小川を渡り、トンネルは短くし、ロッククリークでは木材を組み合わせた史上最長の橋をかけた。この路線の大部分は1986年にCSXトランスポーテーションにより廃止されている。
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