19世紀後半の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/21 00:42 UTC 版)
「ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー」の記事における「19世紀後半の評価」の解説
1862年、ジョン・ティンダルはヘルムホルツとルドルフ・クラウジウスから得た情報で、マイヤーのエネルギー保存則に関する貢献を知った。当時英国ではマイヤーについてほとんど知られていなかった。そこでチンダルはロンドンの王立研究所でエネルギーに関して講演し、そして、「ここまでお示ししたものはすべて、マイヤーというドイツ人物理学者の労作から採り上げたものです。」と発表し、熱の仕事当量などについてのマイヤーの先取権を主張した。この講演は反響を呼び、論争も招いたが、これがきっかけでマイヤーの知名度は上昇した。 マイヤーが科学史の分野で初めて取り上げられたのは、1872年に出版された『力学の一般的原理の批判的歴史』である。著者のデューリングは1880年にマイヤーの伝記を執筆し、「19世紀のガリレオ」というサブタイトルを付けた。 他にも、ヴィルヘルム・オストヴァルトは著書で、エネルギーの理論を初めて作り上げたのはマイヤーであると好意的に取り上げ、エルンスト・マッハも「かれ以外のどんな自然探求者も、これほど重要かつ広汎な見識をもったことはかつてほとんどなかった」と評価している。 一方で、19世紀中はマイヤーに対する批判の意見もあった。マイヤーは自らの理論を作り上げる際に実験をほとんどしておらず、それが実証主義を重視していた当時の科学界にはマイナスに響いていたのである。
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