黄埔軍官学校第1期生とは? わかりやすく解説

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黄埔軍官学校第1期生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/29 09:49 UTC 版)

関麟徴」の記事における「黄埔軍官学校第1期生」の解説

農民家庭生まれる。当初学問の道歩み成績優秀だったが、家庭貧困であったために中途断念し陝西省の軍に加入した1924年民国13年)、陝西省出身中国国民党幹部である于右任上海黄埔軍官学校学生募集していると聞き関麟徴上海へ向かい入学試験応じた(麟徴への改名もこの時)。関は合格して同校第1期生となり、成績優秀ゆえに総教官何応欽から目をかけられている。 同年末に関麟徴黄埔軍官学校卒業し教導第1団に少尉排長として加入する。翌1925年民国14年2月陳炯明討伐従軍し、関は最前線勇戦したが、この時に左膝に被弾し療養余儀なくされた。回復後、関は再び黄埔軍官学校戻って学生隊隊長などをつとめ、さらに軍事知識技術修練つとめている。またこの間に、陳誠らと孫文主義学会発起した。

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黄埔軍官学校第1期生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/19 19:30 UTC 版)

范漢傑」の記事における「黄埔軍官学校第1期生」の解説

父の范之准は故郷里公学を創設校長務め范漢傑自身同学校で学んでいる。1910年宣統2年)、范漢傑広州移り優級師範附属理科学び翌年夏には広東陸軍測量学第5期三角天文測量班に入学した1913年民国2年)に卒業すると、広東陸軍測量三角課員となり、同省で測量業務に携わっている。1918年民国7年)からは広東軍(粤軍)総司令陳炯明総司令部属し翌年福建漳厦測量隊長務めた1920年民国9年)、江西省移り、塩務署緝私総稽九江私船管帯(船長)に就任し、まもなく軍艦江平艦長転じている。1923年民国12年)からは劉震寰率い広西軍桂軍)の総司令部中校参謀起用され、後に第6路司令まで昇進した1924年民国13年)、范漢傑黄埔軍官学校第1期生として入学する卒業後は教導第1団・第2団に配属1925年には粤軍第1師総司令部総司令部少校参謀となり、さらに同師第1旅中校主参謀昇進した同年8月国民革命軍成立とともに粤軍第1師は第4軍拡充され、范は同軍第10師に所属する以後東征陳炯明討伐)、劉震寰楊希閔討伐北伐従軍し軍功をあげて第10師副師長昇進した1927年民国16年4月蒋介石上海クーデター起こすと、蒋介石支持転じた10師長蒋光鼐に随従して北伐から離脱南京に移る。范は蒋介石から浙江警備司令に任ぜられ、同年8月には国民革命軍第8路軍総司令部中将高等参謀昇進している。まもなく、范は軍事政治・経済視察目的日本ドイツ外遊することになり、満州事変勃発した1931年民国20年9月まで海外に在った。

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