黄埔軍官学校第1期生
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農民の家庭に生まれる。当初は学問の道を歩み成績も優秀だったが、家庭が貧困であったために中途で断念し、陝西省の軍に加入した。1924年(民国13年)、陝西省出身の中国国民党幹部である于右任が上海で黄埔軍官学校の学生を募集していると聞き、関麟徴は上海へ向かい入学試験に応じた(麟徴への改名もこの時)。関は合格して同校第1期生となり、成績優秀ゆえに総教官何応欽から目をかけられている。 同年末に関麟徴は黄埔軍官学校を卒業し、教導第1団に少尉排長として加入する。翌1925年(民国14年)2月、陳炯明討伐に従軍し、関は最前線で勇戦したが、この時に左膝に被弾し療養を余儀なくされた。回復後、関は再び黄埔軍官学校に戻って学生隊隊長などをつとめ、さらに軍事知識・技術の修練につとめている。またこの間に、陳誠らと孫文主義学会を発起した。
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黄埔軍官学校第1期生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/19 19:30 UTC 版)
父の范之准は故郷で梓里公学を創設、校長を務め、范漢傑自身も同学校で学んでいる。1910年(宣統2年)、范漢傑は広州に移り、優級師範附属理科で学び、翌年夏には広東陸軍測量学校第5期三角科天文測量班に入学した。1913年(民国2年)に卒業すると、広東陸軍測量局三角課課員となり、同省で測量業務に携わっている。1918年(民国7年)からは広東軍(粤軍)総司令陳炯明の総司令部に属し、翌年、福建漳厦測量隊長を務めた。1920年(民国9年)、江西省に移り、塩務署緝私総稽九江緝私船管帯(船長)に就任し、まもなく軍艦「江平」艦長に転じている。1923年(民国12年)からは劉震寰率いる広西軍(桂軍)の総司令部で中校参謀に起用され、後に第6路司令まで昇進した。 1924年(民国13年)、范漢傑は黄埔軍官学校に第1期生として入学する。卒業後は教導第1団・第2団に配属、1925年には粤軍第1師総司令部で総司令部少校参謀となり、さらに同師第1旅中校主任参謀に昇進した。同年8月、国民革命軍成立とともに粤軍第1師は第4軍に拡充され、范は同軍第10師に所属する。以後、東征(陳炯明討伐)、劉震寰・楊希閔討伐、北伐に従軍し、軍功をあげて第10師副師長に昇進した。1927年(民国16年)4月に蒋介石が上海クーデターを起こすと、蒋介石支持に転じた第10師師長蒋光鼐に随従して北伐から離脱、南京に移る。范は蒋介石から浙江警備司令に任ぜられ、同年8月には国民革命軍第8路軍総司令部中将高等参謀に昇進している。まもなく、范は軍事・政治・経済の視察目的で日本とドイツを外遊することになり、満州事変が勃発した1931年(民国20年)9月まで海外に在った。
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