魏滅亡後
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紀元前225年に魏が秦によって滅ぼされると、張耳と陳余は名を変えて陳のある村の門番となった。既に二人の名は世に知られており、秦に狙われていたためである。そこで村役人に陳余が因縁をつけられ、袋叩きにされるという災難に遭うが、張耳が「将来のためにつまらないことで命を落とすべきではない」と慰めて支え合ったという。 紀元前209年に陳勝が蜂起すると、両人は直ちに馳せ参じた。陳勝は両人が名士ということで喜んで迎えた。この頃、陳勝に王位就くよう薦める声があった。張耳らは「秦に滅ぼされた各国の王族を跡継ぎに立てずに、自ら王になっては私心で蜂起したと思われます」と反対するが、陳勝はそれを押し切り張楚の王位に就いた。そこで陳余は、秦の支配下になっている趙を攻めたいと陳勝に申し入れ、陳勝も了承し武臣を総大将に、邵騒を副将、張耳・陳余をその補佐に任命し、趙討伐に出した。 その途中で范陽(現在の河北省保定市定興県)を攻略した時に、地元の弁士の蒯通が陣営にやって来て「范陽の郡守は自分の旧知である。わたしに説得をお任せ願いたい」と言ったので、武臣らは蒯通に全てを委ねた。説得は成功して趙の攻略が容易になり、その勢いのまま趙を制圧する。その後、張耳・陳余らは武臣に「陳勝王は疑心の虜となっており、このまま帰っても功績は誰かに横取りされ、将軍の身も危なくなります。それを防ぐために、貴方が趙の王になるのです」と趙王即位を囁き、武臣は陳勝に奏上した。これを聞いた陳勝は激怒したが、上柱国(宰相)の房君蔡賜に「各地へ軍を向けている今、離脱されたら大変なことになります」と宥められ、渋々即位を認めた。これにより、張耳は右丞相、邵騒は左丞相、陳余は上将軍へと出世した。
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魏滅亡後
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だが、秦王政(始皇帝)即位後の秦によって魏は滅亡させられ、張耳と陳余は魏の名臣ということであったことから、賞金がかけられることになった。そこで、ふたりは偽名を使って陳に向かい、門番の仕事にありついた。あるとき、陳の役人がふたりに罪をなすりつけてむち打った。陳余は役人に反撃しようとしたが、張耳は陳余の足を踏みつけて耐えるように目配せした。役人が去った後、張耳は「ふたりの高い志のために、今役人を殺して騒動を起こすのはやめよう」と陳余に諭した。 やがて始皇帝が死に、陳勝・呉広の乱が起きて陳勝が陳を占拠した。張耳と陳余は陳勝のもとへ赴くと陳勝は大いに喜び、二人は陳勝に仕えることになった。 陳勝は陳の富豪に王になるよう助言を受け、張耳と陳余に相談したが二人はそろって「陳勝単独で王になるのでは、秦に歯向かう諸侯も納得しない」と反対したが、反乱の成功でのぼせ上がっていた陳勝は陳王を勝手に名乗ってしまった。そこで陳余は、秦の支配下になっている趙を攻めたいと陳勝に申し入れ、武臣に3千の兵を与えて趙の地を攻めさせた。趙の地を知り、豪族とも交流のある陳余は趙の豪族を説得して味方に引き入れ、趙の10城以上を占領したが、攻めても落ちない城もあった。 そこで陳余・張耳は北東の范陽へ転戦した。当地の弁士の蒯通が「秦に仕える趙の郡守は報復を恐れて降伏しないので、郡守に侯の印を渡し、報復をさせない形で降伏を促せばよろしいでしょう」と助言し、それに従った結果郡守たちは次々と降伏し、かつての趙の首都であった邯鄲を占領することに成功した。 そのころから、陳勝が疑心暗鬼に陥り、次々と家臣を殺害しているという話が張耳と陳余に聞こえてきた。そこで二人は「武臣が趙王を名乗れば陳勝に殺されることはない」と進言、武臣は趙王に即位し、陳余は上将軍、張耳は丞相、邵騒は左丞相となった。
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