魏王朝での事跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 05:51 UTC 版)
黄初元年(220年)、曹丕が即位すると使持節・護鮮卑校尉となり昌平に駐屯。解儁とともに鮮卑を監督した。牽招は寛大な統治により、漢族・異民族を問わず帰順する者を受け入れ、鮮卑族の素利・弥加ら部落十数万家や、歩度根・泄帰泥ら部落3万家を招き寄せ帰服させた。その後、右中郎将・雁門太守となり、優れた行政手腕で農地開発と秩序の安定に貢献した一方、雲中郡で泄帰泥らを指揮して軻比能を撃破した。 黄初7年(226年)、曹叡が即位すると関内侯の爵位を賜った。太和2年(228年)、護烏桓校尉の田豫が馬邑城で軻比能に包囲されると、牽招はすぐさま救援に向かい、田豫を救出して軻比能を撃破した。その後、諸葛亮と連携する軻比能を討伐するための計画を進めていたが、その途中で死去した。 牽嘉の子で牽招の孫にあたる牽秀は、晋代に平北将軍にまで昇った。 陳寿は牽招について「義を守ること壮烈で、威厳と功績は顕著だった。その能力を十分に発揮するには、大守程度では役不足であった。」と評している。 小説『三国志演義』には登場しない。
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