魏朝成立以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 14:44 UTC 版)
220年、曹丕(文帝)が魏王につくと、車騎将軍・都督荊揚益三州諸軍事・陳侯に昇進し、2000戸の加増を受け、領邑計3500戸となった。父の曹熾にも陳穆侯が追贈され、墓守りの家が10軒つけられた。 中央では「樊城・襄陽には食糧がないので防ぐことができない」との意見が出され、曹仁は渋りつつも荊州北部を捨てて宛に撤退したが、案の定襄陽を孫権に占拠されてしまった。その後、徐晃らと共に襄陽に立て篭る呉の陳邵を破り、襄陽を奪還した。将軍の高遷(中国語版)に命じて、漢水南部の住民を北部に移住させるように計らった。 221年4月、文帝は曹仁を大将軍に任命し、次に臨潁に屯地を移転させて大司馬に任命した。曹仁は諸軍の指揮を執り烏江を占拠し、引き返して合肥に駐屯した。 222年秋9月、歩兵と騎兵数万を指揮して、濡須に進軍した(「呉主伝」)。この戦役は曹休らが洞口、曹真らが江陵へ同時期に進撃する大規模なものだった。 223年3月、部将の常雕や子の曹泰に別働隊の指揮を任せ、呉の濡須督だった朱桓を欺き、呉軍を分散させることに成功したが、朱桓の本隊が少ない手勢で奮戦したため攻め切れず、常雕の別働隊が先に打ち破られたため、軍を引いて撤退した(濡須口の戦い)。 同年3月19日、病死。56歳であった。忠侯と諡され、子の曹泰が後を継いだ。また、曹楷・曹範にも邑が分与され、ともに列侯となった。曹泰は鎮東将軍・仮節まで昇進した。曹泰の跡はその子の曹初が継いだ。 233年(曹叡の代)5月、魏の功臣の中で功勲が顕著な者として、曹仁は夏侯惇・程昱と共に曹操の廟庭に祭られた。功臣の合祀は度々行われたが、この三人が最初であった。
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