魏晋南北朝の爵位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 00:07 UTC 版)
曹魏に至ると秦漢以来の二十等爵を廃止して、儒教経典の公・侯・伯・子・男を擬古的に復活させた。文帝の黄初年間に王・公・侯・伯・子・男・県侯・郷侯(最初郷侯の下に亭侯が置かれていたが後に省かれる)・関内侯の九等の爵制が定められた。222年(黄初3年)には皇子を王に封じ、王子を郷公に封じ、王世子の子を郷侯に封じ、公子を亭伯に封じていた。その後224年(黄初5年)には諸王の爵位が皆県王に改められ、明帝の232年(太和6年)に再調整されて郡王となった。以上の九等の外に庶民や兵士に対しての賜爵もあり、関内侯の下には名号侯・関中侯・関外侯・五大夫侯が創立された。 晋の武帝の275年(咸寧3年)に王・公・侯・伯・子・男・開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国伯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯の爵制が定められた。皇子でない者には王は封じらず宗室には公・侯・伯・子・男(郡公・県公・郡侯・県侯も与えられた場合もあった)があり、功臣には開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯・関外侯等があり、亭侯以上には封邑が与えられた。五等爵の上に「開国」の2字を加えるケースは西晋では少なかったが、東晋になると多く用いられるようになり常に古来からの五等爵と混称されることもあった。魏晋時代以降は民爵については有名無実化し、皇帝を頂点とした皇族と功臣の爵位制度となっていった。 南朝の梁では、おおよそ魏晋代に倣った爵制を定めていた。陳では郡王・嗣王・藩王・開国郡公・開国県公・侯・伯・子・男・沐食侯・郷亭侯・関中関外侯の十二等があった。 北魏の道武帝の396年(皇始元年)に五等爵が定められたが、404年(天賜元年)に五等から王・公・侯・子の四等に減らされた。王は大郡、公は小郡、侯は大県、子は小県が与えられた。その後、再び伯・男の二等が加えられた。皇子と功臣には王が封ぜられた。500年(景明元年)には王・開国郡公・散公・侯・散侯・伯・散伯・子・散子・男・散男の十一等の爵制が定められた。官品との対応は下の表を参照。なお王には官品は適用されていない。 北斉では王・公・侯・伯・子・男の六等に分けられた。官品との対応は下の表を参照。なお王には北魏の場合と同様に官品は適用されていない。 北周の爵位には全て「開国」が加えられている。爵位は王・郡王・県王・国公・郡公・県公・県侯・県伯・県子・県男・郷男の十一等が定められた。
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