高速運転の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:27 UTC 版)
もともと阪神本線と比較して駅数が少ない神戸本線であるが、1922年5月には集電装置を他の私鉄に先駆けてポールからパンタグラフに交換し、同年12月には梅田駅 - 神戸駅(後の上筒井駅)間の所要時間を40分に短縮した。1926年には梅田駅 - 十三駅間の線路別複々線・専用軌道化が完成して35分とし、そして1930年4月1日には強力な200馬力級電動機を搭載する900形を使用して途中西宮北口駅のみ停車する特急を新設し、30分にまで短縮する。速度向上はその後も続き、1931年10月には28分、1934年7月には25分とし、梅田駅では駅正面に「神戸ユキ急行電車のりば」・「神戸行特急廿五分」と掲げてアピールした。ちなみに、この梅田駅 - 神戸駅間25分運転での表定速度は、高速運転を行ったことで知られる新京阪鉄道(後の京阪電気鉄道新京阪線 → 阪急電鉄京都本線)のP-6形による「超特急」の表定速度(京阪京都 - 天神橋間34分30秒運転で、73.7 km/h)よりも高い78.0 km/hで、戦前の記録では阪和電気鉄道の「超特急」が記録した81.6 km/hについで日本第2位であった。これは現在もなお、阪急の特急の最速である。1936年4月には三宮乗り入れにより距離が若干伸びたにもかかわらず、より高出力な電動機を搭載する920形を投入することで、西宮北口駅のみ停車による25分運転を維持した。この特急運転は、太平洋戦争の戦況が悪化した1944年まで続けられた。 なお、1934年からは鉄道省が運営する東海道本線でも電化の完成によって急行電車(急電)の運転が開始されており、大阪駅 - 三ノ宮駅間を途中無停車により24分で結んでいた。また阪神では、1936年に元町までの地下線による延伸が実現、高頻度運転により「大阪・神戸の中央へまたずにのれる」というアピールを行っている。 また開業時から1942年まで、梅田駅 - 十三駅間を移動する乗客は宝塚本線の電車を利用するように定められ、神戸本線の電車には乗車できなかった。これは郊外路線の宝塚本線と、都市間路線の神戸本線を完全に分ける施策によるといわれている[誰によって?]。
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