風俗画と歴史画とは? わかりやすく解説

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風俗画と歴史画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 10:35 UTC 版)

イリヤ・レーピン」の記事における「風俗画と歴史画」の解説

1881年アレクサンドル2世暗殺される直前に、レーピンロシア革命運動テーマに扱う一連の絵画(『自白拒否』『ナロードニキ逮捕』『待っていなかった』)に着手するなかでも待っていなかった』は、間違いなく革命題材とする風俗画傑作であり、絵の中の人同士対照的な気分と、民族的なモチーフとが混ぜ合わされている。 大作の『クルスク県(ロシア語版)の十字架行進』(1880年1883年)は、一堂会したさまざまな社会階層その間緊張した関係をひとつの伝統的宗教行事託して描くとともに緩慢にではあるがたゆまず続く前進というモチーフでまとめあげている。このことから本作は「ロシア民族様式」の祖型といわれることがある1885年には、心理的側面において最も強烈な絵画イワン雷帝皇子イワン』を完成させるカンバスの中でイワン雷帝は、怒り抑えきれずに息子殴って深手を負わせてから正気戻り死にゆく息子抱き締めつつ恐れ慄いている。怯えきったイワン雷帝横顔は、力ない息子横顔対比をなしている。 レーピンの最も手の込んだ絵画は、『トルコスルタン手紙を書くザポロージュ・コサックたち』であり、服従を迫るスルタン対しコサックたちが嘲弄満ちた返書したためる、という伝説的場面主題である。この作品完成までに実に長い歳月要した本作そもそものコンセプトは「さまざまな笑顔見本であったが、レーピンはまたこの画題のなかに自由・平等・博愛理念内包されているとも考えていた。彼はウクライナ・コサックたちの共和主義理想描こうとしたのである1870年代の末に着手され、ようやく1891年になって完成したが、皮肉にも完成後すぐにツァーリによって買い上げられた。代金は35千ルーブルであった。この数字は、それまでロシア絵画に対して支払われたうちの最高額だった。 成熟期レーピン数多く著名人同胞描いており、レフ・トルストイドミトリー・メンデレーエフ将校ポベドノスツェフ慈善事業パーヴェル・トレチャコフウクライナ詩人タラス・シェフチェンコらを描いた1881年には、ウラディーミル・スターソフ要請もあって、死が間近に迫っていたモデスト・ムソルグスキー肖像描いており、ムソルグスキー死後、その肖像画売ってムソルグスキーアレクサンドル・ネフスキー寺院埋葬する費用にあてたという。1889年には、作曲家アレクサンドル・グラズノフから、管弦楽曲東洋風狂詩曲作品29献呈されている。 1903年にはロシア政府からの依嘱で、国家評議会創設100周年記念式典描いたレーピン最大カンバス400×877 cm)が制作された。

※この「風俗画と歴史画」の解説は、「イリヤ・レーピン」の解説の一部です。
「風俗画と歴史画」を含む「イリヤ・レーピン」の記事については、「イリヤ・レーピン」の概要を参照ください。

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