革新者か否か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)
第二次世界大戦の後になると、信長の政治面での事蹟が評価され、改革者としてのイメージが強まった。歴史小説においては、すでに戦中の1944年に坂口安吾が短編小説「鉄砲」を発表し、近代的な合理主義者としての信長像を明確に打ち出した。合理主義者としての信長のイメージは、高度成長期に発表された司馬遼太郎『国盗り物語』、バブル期の津本陽『下天は夢か』といったベストセラー小説を通して広く浸透することとなった。 学術的には、1963年刊行の『岩波講座日本歴史』において、今井林太郎が信長を次のように評価している。信長は、中世の複雑な土地所有構造を清算し「純粋封建制確立への途を切り開いた」人物である。そして今井は、「信長の前には中世以来の宗教的な権威はまったく通用しなかった」と述べ、信長の本質を中世的権威の否定にあると規定した。この頃には信長が天皇制を打倒しようとしていたという説も現れ、革新者としての信長像が定着することとなる。信長は、その「革新的」な諸政策から、日本史上、極めて重要な人物であり、「不世出の英雄の一人」と評価されてきた。 新しい時代への道を切り拓いた人物としての信長像は広く受け入れられた一方で、信長の時代はいまだ中世的要素が強く、豊臣秀吉の行った太閤検地こそが近世への転換点だという学説も有力であった。朝尾直弘と脇田修は、それぞれ20世紀後半の代表的な中近世移行期研究者であるが、両者の信長に対する歴史的評価は正反対である。朝尾が信長を近世の創始者であると理解したのに対し、脇田は信長を中世最後の覇者であると捉えていた。 その後、21世紀の歴史学界では、より実態に即した信長の研究が進み、その評価の見直しが行われている。例えば、室町幕府と織田政権の連続性が強調され、信長は天皇とも協調関係にあったと考えられるようになった。「楽市・楽座令」を信長独自の革新的政策とする見方にも否定的な研究が多くなった。また、信長の宗教観も他の戦国大名と比較して特異なものとは言えないという指摘もある。この他、様々な面から特別な存在としての信長像に疑義が呈され、信長に画期性を認めることに慎重な意見の研究者が多くなってきている。
※この「革新者か否か」の解説は、「織田信長」の解説の一部です。
「革新者か否か」を含む「織田信長」の記事については、「織田信長」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から革新者か否かを検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 革新者か否かのページへのリンク