雑賀衆と雑賀一向一揆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 08:49 UTC 版)
雑賀衆は鈴木重秀や土橋守重を始め、石山御坊などに籠城しているところから、浄土真宗門徒と考えられてきた。 だが、雑賀地域には浄土宗西山派の本山とされる総持寺があり、しかも総持寺の近くにある同宗の安楽寺が土橋氏の菩提寺であったことが判明してきた。武内善信の研究によれば、戦国時代の雑賀周辺は浄土真宗と浄土宗の勢力が拮抗し、更に真言宗も入り込んでいたとする。鈴木氏は浄光寺末の一道場の代表信徒に過ぎなかったが、早くから本願寺を支援し、また有力な地侍ということで本願寺からは雑賀の一向衆の指導者である年寄衆と同格に扱われていた。また、浄土宗の中でも西山派の中には粟の土橋氏のように反信長の立場から石山戦争に協力的な者もいたが、加太の西山氏のようにこれに加わらない者もおり、一方で鎮西派の人々は非協力的であった。 武内は組-惣荘・惣郷-惣村単位で一揆を結んだ地縁集団である「雑賀衆」「雑賀一揆」と鷺森御坊を中心に道場を単位として本末関係を介して惣村間に横のつながりを有した真宗信者集団である「雑賀門徒」「雑賀一向衆」は別の集団であり、「雑賀衆」の中に多数の「雑賀門徒」を抱えてはいたものの、必ずしも多数派ではなかったとする。石山本願寺にとっては不利な篠原長房の滅亡に雑賀衆が関わっていることや、石山戦争初期に将軍や守護の意向を受けて信長傘下で戦ったのも「雑賀衆」が一向一揆的な集団ではなく、雑賀地域一帯における惣国一揆としての性格を有していたことに由来している。 ところが信長と協力関係にあった守護河内畠山家の没落によって、本願寺を救援したい雑賀門徒と足利義昭の京都復帰を支持する非真宗門徒の思惑の一致の中で雑賀衆の本願寺支援が本格化していき、雑賀荘・十ヶ郷を中心に鈴木氏ら真宗門徒に土橋氏ら非門徒を巻き込んだ反信長連合と言う形で「雑賀一向一揆」と呼ぶべき新たな一揆が形成された(一揆内一揆の発生)。一方で、依然としてこの動きに反対する者もおり、惣国一揆としての雑賀衆としての団結に揺らぎが生じていくことになる。第一次紀伊征伐は実際には織田軍と雑賀一向一揆の戦いであり、雑賀衆でも彼らと距離を置いていた中郷(中川郷)・南郷(三上郷)・宮郷(社家郷)が織田方についたのは当然の流れであった。だが、その後の鈴木孫一・土橋守重や三郷の門徒らによる一向一揆の反撃で南郷は陥落し、雑賀衆の実権は鈴木・土橋ら一向一揆の指導者に握られる。だが、雑賀衆の一揆が持つ統制機能が失われ、石山戦争終結後の対織田政策において本願寺の意向に従って和解を図る門徒系の鈴木氏と足利義昭を支持して抵抗を続けようとする非門徒系の土橋氏の対立が深まると、一向一揆の分裂を招き、雑賀衆は解体に向かう事になった。 武内は「雑賀一揆は信長側で出陣したことはあっても、組織全体として本願寺のために参戦した事実は、一切確認できない」と結論づけている。
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