隠遁生活へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 02:30 UTC 版)
「アルトゥル・ショーペンハウアー」の記事における「隠遁生活へ」の解説
1831年(43歳)8月、コレラの流行を怖れてベルリンを逃れ、九月初めにフランクフルト・アム・マインに移るが、1832年(44歳)にマンハイムへ移住し丸一年滞在する。1833年(45歳)6月、フランクフルト・アム・マインに戻り、ついに定住、隠遁生活に入る。『意志と表象としての世界』第二版に載せるつもりの序文を書く。1834年(46歳)、『意志と表象としての世界』を加筆再版する代わりに「補足的な諸考察」Ergänzende Betrachtungenというタイトルのもとに別の追加巻を出版する計画を立てると、1835年(47歳)5月、『意志と表象としての世界』の売れ行きについてブロックハウスに二回目の照会、をする。「著書の需要全然なく、在庫は大部分反故に。僅少部数のみ残してある」と前回より屈辱的な回答を受け、独立の論文とするつもりの「補足的な諸考察」の一部を『自然における意志について』Über den Willen in der Naturというタイトルのもとに書き改める。8月、ライン河に沿って四日間コープレンツへ旅行するが、以後フランクフルトを離れなかったため最後の旅行となる。 1836年(48歳)、『自然における意志について』がジークムント・シュメルベル書店から刊行。1837年(49歳)、フランクフルト市に作られた「ゲーテ記念像建立委員会」に対しゲーテの記念像を胸像にすべきよう意見書を出す。また『カント全集』が編纂されることにも関与、『純粋理性批判』は第二版ではなく第一版を採用すべきことを論じる。1838年(50歳)、母ヨハンナ死去。ノルウェー王立学士院(アカデミー)の懸賞募集に応じた論文『意志の自由について』をドロントハイムに送り、同時にデンマークアカデミーに懸賞論文『道徳の基礎について』(募集テーマは「道徳の基礎」)を書き始める。1839年(51歳)2月、『意志の自由について』が入賞、『道徳の基礎について』の原稿をコペンハーゲンに送るも、1840年(52歳)1月、こちらは受賞資格なしと決定する。1841年(53歳)、上の二つの懸賞論文を一冊にまとめ、『倫理学の二つの根本問題』としてヨハネス・クリスチアン・ヘルマン書店より刊行。1842年(54歳)、『意志と表象としての世界』の「続編」の仕事を続ける。
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