陸軍出仕
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1877年(明治10年)西南戦争に士官見習として参戦し、3月25日開戦、4月近衛歩兵第1連隊第1大隊第四中隊少尉試補となったが、4月6日負傷、6月6日復帰し、8月6日近衛集成隊 第2中隊に配属された 1879年(明治12年)3月中旬フランスに留学し、ベルサイユ第1工兵連隊、フォンテーヌブロー砲工実施学校(フランス語版)で学び、1882年(明治15年)1月帰国した。 帰国後、陸軍士官学校、参謀本部に勤務し、1883年(明治16年)2月28日工兵大尉に進んだ。しかし、この頃から陸軍はドイツ式を模範とするようになり、また所属する月曜会が山県閥と対立したため、1888年(明治21年)11月参謀本部第2局第1課、工兵第6大隊第3中隊長として熊本に左遷された。1891年(明治24年)9月9日工兵第2方面署員となり、由良要塞を構築、1893年(明治26年)12月18日工兵方面本署に転じ、帰京した。 日清戦争が勃発すると、1894年(明治27年)10月11日第1軍兵站電信提理を命じられ、12月2日工兵少佐、1895年(明治28年)帰国し、11月8日工兵会議議員を兼任した。戦功により功四級金鵄勲章、単光旭日章を受章した 1896年(明治29年)4月1日工兵第3方面呉支署長、1897年(明治30年)8月7日工兵第1方面横須賀支署長となり、芸予要塞、東京湾要塞等の構築に携わった。1898年(明治31年)10月1日工兵中佐。1899年(明治32年)8月12日築城本部に配属され、帰京した。 日露関係が緊迫すると、1901年(明治34年)11月18日要塞戦用器材調査委員として、ロシア偵察の傍ら、ドイツのクルップ社、フランスのサン=シャモン社で砲塔の発注内容を詰め、1902年(明治35年)9月末帰国した。
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陸軍出仕
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明治6年(1873年)2月25日陸軍歩兵少尉として東京鎮台出仕を命じられ、4月11日上京し、徴兵事務に携わった。第五師団長野津道貫の信任を得て、明治8年(1875年)8月10日中尉、明治12年(1879年)3月28日大尉に昇った。 しかし、薩長藩閥による旧広島藩士の冷遇に不満を募らせ、明治14年(1881年)明治十四年の政変に感化されて藤田高之、野村文夫、米田精、呉文聡等と下野を決意し、12月22日退役、麹町区隼町の住居を売却し、借家生活に入った。
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