陸軍入隊 - 南方戦局
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大東亜戦争開戦と同時に「第一戦の戦線に出る」という条件で陸軍省兵務課に志願届を提出し、昭和17年(1942年)7月に陸軍少佐待遇でマニラに着任した。まもなくフィリピン派遣軍第137隊に配属となり、捕虜収容所所長に着任。更に南方特別留学生招聘事業総務部政務班として日本事情について講義を行った。 昭和18年(1943年)6月に東條英機内閣総理大臣が南方軍政地域を訪問した際に、赤松貞雄大佐が浜本の下に来て「総理が会いたいというから名刺をくれ」と言い、初めて東條と面会し、東條にすっかり惚れ込まれた浜本は、総理専属通訳として採用され総理秘書官付内閣嘱託となる。以後。東條の個人的な政策ブレーンとして「南守北進論」など幾多の政策立案に裏方として関わっていく。同年11月に東京で開催された大東亜会議においては主席通訳を務め、英訳をこなすことのできる唯一の大東亜省の外交官として、フィリピン、大日本帝国双方の政府要人の厚い信頼を受けた。更に、会議後の13日に行われた東條・スバス・チャンドラ・ボースの会談でも通訳を担当。 大東亜会議の直前の10月14日にはフィリピン共和国独立宣言が行われ、ラウレルが大統領に就任すると、共和国政府に指名されて大統領特別補佐官に就任。ラウレルはフィリピンが大日本帝国の傀儡政権と言われる事を恐れ、日本人の顧問は浜本しか起用しなかった。ラウレルからは絶対的な信頼を得て、マラカニアン宮殿にて二人で食事を共にする仲であった。以後、大東亜共栄圏内におけるフィリピンの独立運動の実質化のために尽力した。 昭和20年(1945年)に南洋諸島の戦局が悪化、硫黄島の守備隊が全滅し、3月にラウレルは日本に亡命する。日本政府は浜本にも「ラウレル大統領に同行すべし」という特別命令を出したが、浜本はこれを拒否してバギオに残留。タイ国総理大臣のクアン・アパイウォンの私邸にて、駐タイ大使・山本熊一と共に第二回大東亜会議を開こうとしたが果たせなかった。フィリピン防衛司令官・山下奉文大将らとともに、マニラを捨て、最も悲惨と言われたルソン島の激戦地を放浪し、北部山岳地帯に逃れたが、山中生活における極貧のため終戦時には赤痢と栄養失調を起こしていた。
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