陸軍内の動揺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 14:18 UTC 版)
御前会議での決定を知らされた陸軍省では、徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こった。 ポツダム宣言には「全日本軍の無条件降伏」という項目があり、陸海軍は組織存亡の危機にたっていた。午前9時に陸軍省で開かれた会議において、終戦阻止のために阿南陸相が辞任して内閣が総辞職すべきだとにおわせた幕僚に対し、阿南陸相は「不服な者はまずこの阿南を斬れ」と述べて沈静化を図った。 8月12日午前0時過ぎ、サンフランシスコ放送は連合国の回答文を放送した。この中では日本政府による国体護持の要請に対して、「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従う (subject to) ものとする」と回答されていた。 外務省はこの文章を「制限の下に置かれる」と訳し、あくまで終戦を進めようとしたのに対して、陸軍では「隷属するものとする」であると解釈し、天皇の地位が保証されていないとして戦争続行を唱える声が大半を占めた。不満を持つ将校たちの指導者格であり阿南陸相の義弟でもあった竹下正彦中佐は阿南陸相に終戦阻止を求め、さらにそれが無理であれば切腹するよう迫っている。 15時から開催された皇族会議の出席者たちはおおむね降伏に賛成したが、同時刻の閣議および翌13日午前9時からの最高戦争指導会議では議論が紛糾した。 閣議において最後までポツダム宣言受諾に反対していたのは、陸軍代表の阿南陸相・松阪広政司法大臣・安倍源基内務大臣の3名であった。 しかし、15時の閣議においてついに回答受諾が決定された。陸相官邸に戻った阿南陸相は6名の将校(軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐)に面会を求められ、クーデター計画への賛同を迫られた。 「兵力使用計画」と題されたこの案では、東部軍及び近衛第一師団を用いて宮城を隔離、鈴木首相、木戸幸一内大臣府、東郷外相、米内海相らの政府要人を捕らえて戒厳令を発布し、国体護持を連合国側が承認するまで戦争を継続すると記されていた。阿南陸相は「梅津参謀総長と会った上で決心を伝える」と返答し、一同を解散させた。
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