閣僚退任後
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新国立劇場を管理・運営する新国立劇場運営財団にて、2005年から2011年まで理事長を務めた。木村尚三郎の死去により空席となっていた、トヨタ財団の理事長に2007年に就任。2010年には同財団を公益財団法人に移行させた。
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閣僚退任後
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体調不良で自民党参議院幹事長を辞任した山崎正昭の後任に自民党両院議員総会長の谷川秀善が就任したことを受け、空席になった自民党両院議員総会長に就任。 2009年の第45回衆議院議員総選挙で自民党下野が決まった後の9月16日には、内閣総理大臣指名選挙で自民党の首班候補となり、119票を得た(民主党代表の鳩山由紀夫は327票)。これは、総選挙で惨敗した責任を取って麻生太郎を初めとした自民党幹部が総裁など党役職を辞任すること、この時点で自由民主党総裁選挙が実施されておらず、後継総裁が決まらない状況でもあったことから、自民党議員全員が一致して投票できる候補として、両院議員総会長の職にあった若林に白羽の矢が立ったものである。相次いだ農相リリーフに続く「大役」が話題となり、参議院議員初の自民党指名候補となった。若林本人は「若林正俊(の名前を書くこと)自体に、大きな意味があるとは思わない。(自民党の)結束のためだ」とコメントした。 同年12月5日、翌年行われる第22回参議院議員通常選挙へ出馬せず、引退する意向を表明した。2010年7月に任期満了後の夏の参院選には、代わりに長男が公募という形で自民党公認として出馬する段取りが既にできていた。 2010年4月2日、3月31日の参議院本会議での採決において、自民党が党議拘束によって投票行動が一致していた日本放送協会平成22年度予算案など計10件で押しボタン式投票で欠席していた自民党前参議院議員会長の青木幹雄の投票ボタンを押した責任を取って参議院議長・江田五月に議員辞職願を提出し、同日の参議院本会議にて若林の辞職案件が可決され、若林の議員辞職が決定した。代理投票をした理由としては、参議院本会議で導入されている押しボタン式投票では有権者が個々の議員の投票先が容易に閲覧できる仕組みになっていることから、棄権が多くなると国会欠席で政治活動が怠慢であるとして有権者にネガティブな印象を与えてしまうために、青木から代理投票を依頼されたと推測されたが、若林は記者会見で「魔が差したとしか言いようがない」「青木さんから依頼されたことはない」と謝罪・釈明を行い、青木からの代理投票の依頼を否定した。 不祥事で辞任した農水大臣の3度の代役、総裁不在時の自民党首相候補、参議院本会議での代理投票など、最後まで「誰かの代わり」ということが印象に残る政治家人生であった。また、「多年にわたり国会議員として議案審議の重責を果たすとともに、農林水産大臣等として国政の枢機に参画した」功労により、2011年6月24日、皇居での大綬章等勲章親授式において旭日大綬章を授与された。
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