関西遊学とは? わかりやすく解説

関西遊学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/30 08:42 UTC 版)

大槻磐渓」の記事における「関西遊学」の解説

このように郷里東北には縁があったものの、未だ箱根山越えたことがなかった磐渓は、1827年27歳の頃、父の取り組む蘭学修行念頭に関西九州経て長崎への遊学決意した。この旅程が、彼の旅日記西遊紀程』にまとめられている。この旅程で磐渓は多く学者達の教えを受けながら長崎へと向かったが、当時一介書生であった磐渓が高名な学者達と対面出来たのには、有名な蘭学者大槻玄沢息子であったという要因無視できない3月27日京都での頼山陽との出会い特筆値する。ここで磐渓の漢文見た山陽は、磐渓に「後来有望なり」との評価与え酒杯共にすることとを望んだ。ここで頼山陽は、完成間近の『日本外史』の原稿を磐渓に見せた。しかし酔った磐渓は、あろうことか大学者である頼の原稿に対して批評始めてしまい、頼の一喝くらってしまう。しかし、頼も磐渓の批評を気にしていたのか、彼の指摘受けて日本外史構成改定した。磐渓は後にこのことを「自分放言も、暗に山陽助けたことになった」と述懐している。また同日山陽弟子であり、美濃蘭学の祖と呼ばれる江馬蘭斎の娘・江馬細香とも出会っている。細香に聡明さ柔和さ感じた磐渓は、後に彼女への思い漢詩「和細香女史見寄三首」に書き残しており、そこには彼女への慕情読み取れる4月10日の宿にて、早飛脚で父玄沢が病に倒れたとの知らせを受け、急遽長崎遊学中断し急ぎ江戸へ帰還した。玄沢は既に3月30日没していた。翌1828年7月改め蘭学修行のために長崎遊学実現させた。しかし、当時長崎シーボルト事件影響騒然としており、オランダ人との接触ができなかったため、結局蘭学修行出来ず翌年江戸帰った。こうして磐渓の蘭学修行実現せずまた、頼山陽賛辞受けたこともあり、最終的に蘭学ではなく漢学志すことになった。ただ、この長崎滞在中に高島秋帆出会っていたことが、後にひとつの転機となった

※この「関西遊学」の解説は、「大槻磐渓」の解説の一部です。
「関西遊学」を含む「大槻磐渓」の記事については、「大槻磐渓」の概要を参照ください。

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