関東鉄道常総線列車衝突事故
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「日本の鉄道事故 (1950年から1999年)」の記事における「関東鉄道常総線列車衝突事故」の解説
1992年(平成4年)6月2日 (列車脱線事故) 事故の現場。まだ建物内に車両の一部が残っている(1992年6月6日撮影) 切断の上除去された事故車両(1992年6月6日撮影) 関東鉄道常総線取手駅構内において、入線してきた同駅終着(新守谷発)上り列車(キハ300形気動車2両とキハ800形気動車2両の4両編成、乗客約900名)が減速せずに暴走、車止めを突破し、そのまま駅ビルボックスヒル取手店(現・アトレ取手)の2階の壁を突き破り、先頭車両が同店舗に突入して大破した。乗客1名が死亡した。列車の駅進入前に運転士が窓から飛び降りて脱出し(『朝日新聞』1992年6月3日朝刊)、250名以上が重軽傷を負った。飛び降りた運転士の行動に関しては賛否両論の声があった。また死亡した乗客の遺族の弔問に訪れた関東鉄道の役員が遺族に門前払いを喰らう場面が当時ワイドショーで繰り返し報道された。運転士は、ブレーキが効かなくなったことを車内放送で伝えて、乗客に後方に移動するように指示したが、朝のラッシュ時の混雑した車内での移動は困難を極め、車内はパニックとなり、網棚に上りだした乗客もいたという。 原因はブレーキ故障であるとされている。非常ブレーキも一駅手前の西取手駅で作動させた後に、発車しようとしたところ、ブレーキが緩まなくなり、運転士がブレーキ締め切りコックを閉めてブレーキを緩め、元に戻さずに発車してしまい、常用・非常の両系統のブレーキが作動しなかった。 後になって判明したが、西取手駅でブレーキ不緩解となり、運転士は異常時の取扱として保安ブレーキ締切コックを閉とした。その際、車掌が扱った車掌弁を復位していなかったため常用の自動空気ブレーキ系統も、保安ブレーキ系統の圧縮空気も保安ブレーキ締切コックの側穴から外部へ排気されてしまって、ブレーキシリンダーに空気が供給されず、ブレーキ装置が動作しない状態だった。遠因としては制動装置点検中の運転士に対して乗客が運行再開を強硬に迫ったことも挙げられる。なお、事故を起こしたキハ300形は、国鉄の中古車両(キハ35系)を購入して使用していたものであるが、経年劣化は酷く、メンテナンスを行っていたものの、この事故車両に関してはブレーキ不緩解が時々あったという。しかし当時の同線は急激な乗客増加という環境もあり、修理しながらラッシュ時間帯を中心によく使われていた。さらに関東鉄道常総線は勾配が極めて少ない線区(最大が本事故の発生箇所にあたる西取手 - 取手間で3 ‰だった)であった。 事故以降、同社はキハ2100形をはじめとした新製車両を随時投入し、キハ300形の運用は2011年に終了した。
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